2022年5月19日木曜日

ぶらり遍路の旅(6)諸々の断片(a)

(1)隠れた自己承認欲求

 遍路道の所々が山道になっていると記した。一日中そういう山道を歩くこともあれば、ほんの2時間ほどとか、遍路参詣登山口からお寺さんまでの1時間足らずのところもあった。振り返って考えて見ると、明らかに私は、山道に心惹かれていた。荷が重くても、山歩きならこうやってゆっくりと歩くのが基本、ここでへこたれて何が登山だと思うと、自ずから力が湧いてくるように感じていた。

 ところが、国道や県道歩きが長く続くと、それだけで気力が削がれていくように感じるのは、なぜか。google-mapの「経路案内」が優れているのは、「歩行」をマークしておくと、本当に狭い道でも(近ければなのかどうかはわからないが)案内する。あることろでは、家屋と脇の田んぼの間の、細い畦のような草ぼうぼうの道へ入るところで「左へ0㍍」と表示が出た。これは如何に何でも間違いだろうと、20㍍先の車道までいってみたら、大きく回り込む道は、件の畦道と合流して川を越える橋へと向かっていた。なるほどgoogle-mapの「歩行」はこういう芸当をやるんだと感心したことがある。それが逆に災いして、何処へ行っても「*分遅い」と表示付きでルートは示してくれるから、ぶらりが何とも大回りになってしまうこともあったことは、すでにご報告したことである。でも、少々遠回りになっても、当初の歩行距離を1日20㌔程度にしていたから、4㌔や5㌔余計に歩いても構わない気分であった。すでに田植えの終わった水路沿いの、車の滅多に通らない田舎道は、山のアプローチ同様、好ましく感じられた。これはどうしてなのか。田舎の風景が私の子どもの頃の原体験として身に染みこんでいて、自然の溶け込んでいる感触を湛えているからなのだろうか。身が悦んでいるのを感じていた。

 なぜ山へゆくのかと問われたとき、歩いているときに瞑想状態になるのが良いからと応えてきた。無念無想というか、意識は明晰なのに足下のディテールしか目に留めていない。その状態が素敵だからと思っていたが、なぜ素敵に感じられるのか。

 その根柢にわが身に何時知らず刻んできた空間的景観の記憶が甦っているのかも知れない。つまり山へ行ったり遍路道を歩いたりすることで、わが身がいまなお経験的に積み上げてきた人類史的堆積を現実に確証し続けてくれている。そう思うようになった。

 こうも言えようか。そうやって繰り返し自己承認を求めているのかも知れない。私の心持ちが落ち着く根源に、そういう隠れた欲求があり、それに気づかないままお遍路している。そう感じたことがあった。


(2)重い荷と郵便局

 これくらいの重さで音を上げてどうすると自分に言い聞かせながら歩いたのは、4日目までであった。まず、つかわないものを捨てることにした。山と溪谷社の『四国八十八カ所05』と古い(友人から貰った)『へんろみち地図』を宿のゴミ箱に入れておいた。ついで衣類の半分ほどを帰りに立ち寄ることにしていた兄の家へ送った。洗濯ができ、ほぼ二組あれば困らない。私は山歩き同様、雨でびしょ濡れになったときのことを考え、しかも行き帰りの電車の中を考えて3組のほかに宿での内着を用意していたのだが、宿の浴衣と衣類の乾燥も含めて無用なものを送ってしまった。ザックそのものが大きいものだったから、見かけは変わらなかったが、気分も含めてずいぶん楽になった。

 これには、何処へ行っても郵便局があることがありがたかった。実際荷物ばかりでなく、手持ちの現金もそう多くは持たなかった。カード決済できるものはそうした。遍路宿は現金だろうが、持ち歩くわけにはいかない。そこで郵便局の口座を用いることにして、途中で一度貯金をおろしたが、その後の買い物などはほとんどカードで済ませることができたから、余計な心配ではあった。


(3)お遍路という共同体への組み込み方

 菅笠を被り白装束をして歩く年寄りが「おへんろ」であることは一目瞭然。それが道をうろうろしていると「*番札所は・・・」と教えてくれたと、どこかで報告した。また、山へ入るような遍路道がそのまま牧野植物園の中を通り、植物園の入口に向かっていることにも驚いた。ちょうど大型連休とぶつかる朝9時頃であったから、たくさんの人たちが入ってくるのと逆向きに歩くことになった。私の姿を見た植物園の職員がさっとやってきて、こちらへどうぞと外へと案内してくれた。もちろん料金はとらない。これも、遍路姿はこうやって受け容れられているのだと感じたあしらいであった。

 もっともこのときは、外へ出てみると、植物園の中の牧野記念館で牧野富太郎の生涯展をやっていたので、引き返して料金を支払いもう一度入園した。NHKの朝ドラで生誕160年の牧野富太郎が取り上げられることになったので、記念館でも生涯展を企画したらしい。これは面白かった。植物分類学の父といわれる牧野富太郎が、金銭に構わない大らかなというか、大雑把な性格だったとか、当時のアカデミズムの権威階梯を踏まえず自説を貫いて体系化を図ったというのは、面白い人生であったろうなと思えた。もちろん同時に、周りにいた人たちにはそう単純に喜べない迷惑な存在であったろうが、何かを成し遂げるというのは、そういう周りの迷惑に構わない無神経さがいるのかも知れないと思った。

 それと同時に、その後の植物学の成果を盛り込んで生物の99%が死滅したとする氷河期や彗星の衝突など5度の災厄を経てきた生命の歴史一覧をみると、ヒトの小ささと幸運さとが感じられ、現在の地球の危機的な状況さえも、6度目の災厄に向かっているだけのことと「一切皆空」とみえて、気が楽になる。ヒトだって、こうやって滅びていくのだと、まるで予言を見るようで、面白かった。

 ああ、そういう話しではなかった。四国において「お遍路」は見事に日常に組み込まれている。道に迷っているというのも、何処へ行くかを周囲の人たちが知っているからだ。もし菅笠もなく白衣も着ていなければ、ただの徘徊老人だとみなされたかも知れない。いやそうじゃないか。そうとすらみなされず、ほとんど存在していないウォーキング・シャドウであったかもしれない。そういう意味でも「おへんろ」は実存が承認され、四国の地に受け容れられている。ただの観光客とも違う。この受け入れのかたちが、なにかヒトの実存の確かさに通じているように感じたが、それ以上は分からない。


(4)海部の町という気風

 徳島県最後の札所から室戸岬へ向けて歩いているときに海部郡海陽町を通過した。最初の鶴風亭のご亭主が海陽町の名を口にした。その入口辺りに海部刀という日本刀の名刀がつくられていた、ぜひその資料館があるから寄って行けと奨めてくれた。そのとき「海部町」のことが記憶の底からぷかりと浮かび上がってきた。ボンヤリとした記憶であったが、そこかで社会学者が何かを調査した町というところまでは想い出した。はて何だったろう。想い出した。日本一自殺が少ない町として社会学者が調査に入ったという記録だった。

 お遍路から帰ってきてから古いブログの記録を探してみたら、2015年3月に、その記事があった。これを読み直して、お遍路全体を通して海部町の気風にひたってきたのだと感じる。お遍路を受け容れる気風には「生き心地が良い」関係をつくる人と人の向き合い方が、長年に亘って積み重ねられてきたと腑に落ちる思いがする。参考のために、再掲する

 

 ★ 「生き心地の良い」とはどういうことか(1)鷹揚な自立主義


 岡檀『生き心地の良い町――この自殺率の低さには理由がある』(講談社、2013年)を読む。こういう調査をしている社会学者がいるんだと感心した。視点もいい。平成の大合併以前の市区町村区分で自殺率を調べ、その一段と低い町の何が率の高いところと違うのかを調べている。

 全国平均の「人口十万人自殺率」は「25.2」、ところが(旧)海部町は「8.7」。自殺率の低いベスト10の8位に入る。ちなみにベスト10のほかの九つはすべて離島である。さらにまた、海部町と隣接する2町の自殺率平均値は、「26.6」と「29.7」。これは何かある、とみるのも当然な差異である。

 この三分の一という数値の差異には何かあると睨んでアンケートやインタビューを行い、あるいは地理的な立地条件を比べて、自殺の少ないワケを解析している。視点がいいとは、平成の大合併によってできた広い行政区画では決して明らかにならない地域社会のエートス(一般的規範感覚の気配)を浮き彫りにしている。それに実際、「自殺率」という統計自体が、大きな行政単位に集計されると、いわゆる「平均値」になって、海部町のような特異点が消失してしまう。そういう意味では、今でしか解析することのできなかった研究だともいえる。

 まず、研究のデータや対象を取り扱っているしかるべき役所・機関に趣旨を説いて理解してもらうとともに、援けを得ながら、どうしたらいいかを探る。その上でコミュニティに移り住み、インタビューやアンケートの面談調査を行う。通常行われる社会学アンケート調査手法の「欠点」をカバーするべく、調査担当の人たちに調査趣旨を説明するところから、すでに回収の意味が深いところに届いている。何しろ1900件に近いアンケートの回収率が2回調査の平均値で93%になる。ふつうは回収率が6割を超えれば有効と言われている。調査協力者自体が、その調査の意味を十分咀嚼していなければ、かなわない数字だ。

 だがアンケート調査はこの研究のメインではない。しばらくそこに暮らし、その土地の人たちと言葉を交わし、その立ち居振る舞いから他の地域と気配が違うことを感じとる。そうして5つの差異を剔出している(以下の記述に付した番号は引用者がつけた便宜上のもの)。


(1)いろんな人がいてもよい、いろんな人がいた方がよい

 地域のエートスが他の地域と違う、とまとめる。「赤い羽根の募金の集まりが悪い」ということに気づき、なぜかと聞いてみる。「何に使こうとるかわからんもんに寄付するより、街のお祭りに出す方がええ」ということばから、出す人は出せばいいし嫌な人は出さんでもええ、当たり前のことじゃと、人との違いを気にしない自律性を見て取っている。それはすなわち他の地域では、他の人たちは出しているのに自分が出さないのは風が悪いというエートスと対照的である。

 それはさらに、「朋輩組」の運びにも関係する。他の地域ではほとんど消滅した「若集組」(若集宿)は、かつて地域社会の通過儀礼組織であった。年寄りから、(徴兵でいった)軍隊の方が緩やかだったと評されるほど先輩格からの「しごき」などがあって、戦後ほとんど消えていった。だが海部町では「朋輩組」という年齢階梯型共同体組織として今でも残っているそうだ。「しごき」などは、「なんのこっちゃ。そりゃ野暮じゃ」と、その影も見えないという。つまり、先輩・後輩という序列が因習的な権力関係ではなく、協同的な共同関係にある。そのことを証だてる一つのアンケート調査結果がある。

 排他的傾向の度合い――①「あなたは一般的に人を信用できますか」、②「相手が見知らぬ人であっても信用できますか」という調査である。自殺率の低い海部町と【自殺率の高いA町】の比較である。

 まず、①「あなたは一般的に人を信用できますか」という問いに対して、

 [肯定]35.1【18.9】、[どちらともいえない]31.1【49.8】、[否定]33.8【31.3】とある。

  歴然たる違いだ。海部町の方が、楽天的というか能天気というか、おおらかである。

 ついで、②「相手が見知らぬ人であっても信用できますか」に対して、

 [肯定]27.0【12.8】、[どちらともいえない]28.3【42.8】、[否定]44.1【44.4】とある。

 このデータを読み取るとき、(アンケート結果を読むとき一般的に言えることだが)気をつけたいことがある。この地域にこれだけ%の人たちが散らばっているという読み方をしてはいけない。たとえば①に関して、海部町の人たちの胸中は、「35.1%が肯定」気分、「33.8%が否定」気分、「31.1%がどちらともいえない」気分と読むと、わりと地域のエートスが分かる。実体的な人数と考えると、人柄がぼやける。それほど截然とモノゴトを私たちは明快にしていないからだ。あれもこれもあり、でも1つ選ぶとすれば、まあこっちかなというふうに、回答している。つまり海部町の人たちは、「見知らぬ人」という他者を受け入れる許容度が(そうでないA地域に比べて)高いとみると分かりやすい。


(2)人物本位主義を貫く

 「地域リーダーを選ぶ際の基準」についての調査結果もある。

 二つの地域について、③「問題解決能力を重視」、④「学歴を重視」に関する肯定-否定の度合いを尋ねている。

 「ここでいう人物本位主義とは、職業上の地位や学歴、家柄や財力などにとらわれることなく、その人の問題解決能力や人柄をみて評価することを指している」と、まず岡は解説する。そうして、海部町と自発多発A地域と比較すると、以下のような違いが明らかになった。

 ③「問題解決能力を重視」について  海部町【A町】

 [肯定]76.7【67.3】、[どちらともいえない]17.9【23.6】、[否定]5.3【9.2】とある。

 ④「学歴を重視」については、

 [肯定]6.8【13.3】、[どちらともいえない]24.6【17.6】、[否定]68.6【69.1】という結果だ。

 それぞれの項目に関する両地域の差異はそれほど大きいとは思えないが、社会学的には「有意の差」だと岡は解説している。このデータも、前と同様、その地域の人の胸中で、その要素がどれほどの割合を占めているかと読み取ると、我が身と重ねて了解しやすい。

 ふだん私は、「学歴重視」の要素を権威主義と呼んでいる。有名人やブランド物、世間の評判に価値の重心を置く「権威主義」的な人はけっこう多い。それはそれで根拠もないわけではない。有名大学の卒業者は、一般に学力においては優秀なのが多い。商品を選ぶときにブランド物の方が品質の心配をする必要がないことが多い。だが地域の暮らしに必要な能力となると、学力と比例するものではないし、会社などでの地位と相関するとも限らない。所詮人柄を見極めるのが一番いいと、私も思う。

 つまり、人物本位主義的に向き合う関係と権威主義的に向き合う関係では、後者の方が関係の硬直性が高い。人物本位主義的な場合、人は変わるし変わりうることが前提にある。人と人との「かんけい」は硬直的でない方が自由である。(つづく)


★ 「生き心地の良い」とはどういうことか(2)「朋輩」という関係


(3)どうせ自分なんてと考えない

 「有能感(自己効力感)の度合い」の調査もしている。「自分のような者に政府を動かす力はない」と問うて「肯定-否定」聞いている。自殺率の低い海部町と【自殺率の高いA町】との比較である。

 [肯定]26.3【51.2】、[どちらともいえない]31.9【21.6】、「否定」41.8【27.2】

 私がもしそう問われたら、私は「肯定」するだろう。だが「政府」というのが、自分の暮らすこの小さな地域のことだとすると、「否定」すると思う。代議制民主主義という制度をどうとらえているかの違いが表出すると思うからだ。国政と地方の町村とは、明らかに違う。

 自分の属する集団を主体的に担う心づもりを問うているのであれば、むろん「否定」である。そのときに「どうせ自分なんて」と考えるのは、養老孟がいうところの「バカの壁」だ。心理学でいう「有能感(自己効力感)」というのと少しずれがあると思うが、とりあえずそれを脇に置いておこう。しかし、この両地域のずれは、どうだ。「バカの壁」が倍にもなっている。

 面白かったのは、「極道もんになった」ということばと、この項目を岡が結び付けて考察していることだ。「この地域では、働きもせずぶらぶらしている人、遊び人、怠け者のこと」を「極道者」というそうだ。それで思い出した。「極道もんの頭に最初に雨がおちる」という慣用句があると高知の山奥に育ったカミサンが話していた。私はそのとき、「極道者」をヤクザやテキヤというか、悪行を働いたり博徒のような暮らしをする人のことだと思っていた。だが、この徳島県の海部町の用法と同じだとすると、面白い。つまり、自分の暮らしを基本的に自分で切り回していこうという気概をもつか、人に頼ってたべていこうとしているかを問題にしているのだ。そういう気概をもたなくなったものを「極道もんになった」と言っている。さしずめ年金生活をしている私は、はや立派な極道もんである。自律の精神と根本においては同じである。


(4)病、市に出せ

 これは、隠さず周りに相談せよということらしい。「援助希求への抵抗感」の調査である。

「悩みを抱えたとき、誰かに相談したり助けを求めたりすることに抵抗感はある」かと質問している。やはり、海部町と【自殺率の大きいA町】の回答比率は次のようである。

 [肯定]20.2【27.0】、[どちらともいえない]17.0【25.7】、[否定]62.8【47.3】

 「悩み」というのを(自殺に結びつくので)うつ病受診率の高さを取り上げて説明している。海部町では「あんた、うつんなっとんのと違うん。はよ病院へ行て、薬もらい」と周りが気遣うし、声をかける。「どうも私はうつになってきているみたい」と相談するらしい。むろん病院に行くことにためらいはないし、うつ病と診断されたことをひた隠しに隠すこともない。ところが、自殺率の高い地域では、精神病だというと恥ずかしいし、孫子や親戚のもんに顔向けできないと考えるらしい。海部町では「あんた、うつんなっとんのと違うん」と周りが声をかけると、自殺率の高い地域で紹介をすると、どよめきが起きると記している。

 この「どよめく」感覚は、見栄を張ることにもつながる。だが、見栄が一概に悪いと言えないのは、見栄を張ってそれに見合うように自分を鍛えていくというやり方が、ひとつの方法としてあるからだ。私はそのようなやり方を好まないが、実力以上に自分を大きく見せ、ウソから出たマコトのようにして力をつけていくのも、アリだとは思う。あるいは「我慢をする」とか「できるだけ自分で何とかしようと考える」というのも(岡は後で記しているが)、傾斜の急峻な山間部の土地で暮らしている人の気性は、自ずとこのようなものになるらしい。それは、基本的に自分で成し遂げる、人の援けをあてにしないという自律の構えであろう。それはそれで大切であるが、「市に出す」ことによって人と人とのかんけいも屈託のないやわらかいものになると、言っているようである。

 隠し事をせず、自分を飾らず、腹蔵なく付き合うのは、そのような付き合いをする人の存在を承認するという意味でも、コミュニティの緊張感を緩める効果を持つ。開かれた関係には欠かせないと思うのだが、どうだろうか。


(5)ゆるやかにつながる

 隣人の「うつ」にまで気遣うというと、おせっかいが過ぎると思うであろう。ところが岡は、そういう「粘質な」印象はないという。「基本は放任主義で必要があれば過不足なく援助するというような、どちらかというと淡白なコミュニケーションの様子が窺える」とみる。

 「隣人との付き合い方」という調査結果にまとめている。やはり、海部町と【自殺率の高いA町】の比較。次の5項目それぞれについての%。

 「日常的に生活面で協力」………………16.5【44.0】

 「立ち話程度のつきあい」………………49.9【37.4】

 「あいさつ程度の最小限のつきあい」…31.3【15.9】

 「つきあいはまったくしていない」…… 2.4【2.6】

 隣人間のコミュニケーションが切れているわけではないが、「立ち話程度」「あいさつ程度」とかなりあっさりしている様子とみている。気遣いは、親密な共同体のそれのようであるが、人と人との距離はほどほどに保たれている。そこでは、人間関係が固定していない。加入も大会も自由な「朋輩組」の互助活動もある。子どもたちの放課後の遊びも、家に帰ってきてからの仲間で一緒に遊ぶこともある。出入り自由な関係が、付き合い方の柔軟さを生み出している。


★ 「生き心地の良い」とはどういうことか(3)悲しみに向き合い視界を広げる


 自殺率が低いコミュニティの特徴を岡は以下の5つにまとめた。

(1)いろんな人がいてもよい、いろんな人がいた方がよい

(2)人物本位主義を貫く

(3)どうせ自分なんてと考えない

(4)病、市に出せ

(5)ゆるやかにつながる

 これらのエートスはどのようにして生まれてきたのであろうか。岡は海部町の地理的な立地条件を歴史的に追っている。海部町というのは徳島県、四国の南西部、紀伊半島に突き出すように伸びた蒲生田岬から室戸岬まですっきりした海岸線をつくる太平洋岸のほぼ中央部に位置する。海部川の下流に開かれた港町である。川のあるせいで、江戸時代には大坂相手に木材を商って賑やかであったらしい。ことに大坂夏の陣で大坂の街が焼き払われたときには、上流域から川を通じて材木が切り出され、流通加工の拠点になったようだ。岡の説明では、そのときに海部の町に(たぶん四国各地からだろうが)多くの人がやってきて、職人として仕事に従事し住み着いたという。つまり、習わしの固着した共同体ではなく、いろんな才覚・習俗を持った人たちが寄り集って町をなしたがゆえに、ここまで記してきたコミュニティの規範感覚を培ってきたのだろうと推測している。

 5つの「自殺予防因子」とそれから派生する規範感覚を表すいろんな言葉を、岡は拾っている。

 (1)について「ああ、こういう考え方、物の見方があったのか。世の中は自分と同じ考え方の人ばかりではない。いろいろな人がいるものだ」と、多様性のもたらすカルチャーショックを吸収していると。それによる弾力性と順応性を指摘する。

  あるいは、同調的に話題が進行しているときにそこに異質な視点を投げ込んで、一方向に過度に進行することを切り替える「スウィッチャー」がいると分節する。つまり、他者への関心が不要というのではなく、関心は置くが監視はしないという「かんけい」の微妙な要点を掘り出す。

 それは「状況可変」を念頭に置いている。社会関係にせよ人間関係にせよ、不変を前提にしていると「関係」は固着する。たぶんそれは、人を概念化してとらえ、我が心中にバカの壁をつくることを意味しているといいたいようだ。つまり別の言葉にすれば、「人は変わる」と海部町の人たちは思っているということである。

 だから「やり直しのきく生き方」をしていると、「一度はこらえたれ」という「朋輩組」の事例などを取り出している。そのようにして紡がれた「かんけい」が「弱音を吐かせる」術にもなるとみる。「病、市に出せ」につながる。しかも、「援助希求」に対して言葉ではなく態度で反応することが、さらに「情報開示」の心理的負担を軽くしていると、個別的かかわりの大切さを見て取っている。

 総じて「賢い人が多い町」という町の人の言葉にも目を留める。「人の性や業を良く知る人たち」というわけである。

 岡は「自殺予防因子」を探る過程で、こうしたコミュニティの「かんけい」を拾い出したのであるが、これは同時に、家族や家庭や学校などの「かんけい」にも当てはまる在り様を示している。もちろんそれらが同質のかかわりを意味するわけではなく、コミュニティが上記のような「かんけい」を持っていれば、それに対応して変化する「かんけい」の位置取りをすることもみえてくるように思う。それが、「生き心地が良い」ことへつながっている。

 だが私が、この人は信用できると思ったのは、最後の「結びにかえて」のところで、「自殺はそれほど悪いことなんでしょうか」というある母親の問いに言葉を失ったことを率直に述べている。娘を自殺によって失った母親に対して、周りの人たちがきつく責める言葉と視線がその問いを紡ぎ出したのだ。「自殺予防因子」を探るのが岡の研究テーマではあったが、このことが転機となって「生き心地が良い」コミュニティの探求へと拓いていったと考えられる。

 人は、ひとつの哀しみに向き合い、それを深く受け止めることを通じて、一歩ずつ視界を広げていくのだと思った。(2015/3/22)

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