2022年5月24日火曜日

「わたし」のハレとケ

 お遍路から戻ってきて、2週間、「ご報告」を書き上げ、お遍路前の日常が戻ってきて、もう一度「お遍路」というハレとそれまでのケとがどう違うか、何処が違うか考えてみました。「ご報告」に記したことと一部重なりますが、ご容赦ください。

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(1)日々、身を通過することを書き記すという「おしゃべり」ができず、身の裡に堆積しつつ雲散霧消していくコトゴトが、なにがしかの鬱屈になったのを「飽きちゃった」と感じたのだと振り返っている。これまでも1週間程度の旅のときには、帰ってきてから書き留めることで身に吹き溜まることはなかった。とすると、旅のかたちを考えなければならない。1週間程度で区切りを付けるか、モバイルをつかって日々の印象や違和感を書き留め、その都度ブログにアップすることで(おしゃべりの)憂さ晴らしをしながら歩き続けるか。

(2)1週間程度の区切りを付ける旅は、考えてみると、1週間という期間のモンダイではないと思う。四国のお遍路はハレとケが交錯する毎日を歩いている。遍路道が山や谷、海辺ばかりを歩くのであれば、(私にとっては)ずうっとハレを維持できたかも知れない。だがすぐに、国道や県道、車道に出る。コンビニもあれば郵便局もある。どこそこは25㌔ほど自販機がありませんよと教えてくれたとき、えっ? 何でそれがモンダイと思った。山歩きのときにその日の水を必ず背負って出発する私にとって、自販機は目に入ったことがないからだ。つまりお遍路では、ハレとケがパッチワークのように継ぎ接ぎになってわが身を通過する。そのときどきに感じる印象や気になることや違和感が、なんであるかを腑に落とすことなく通過させて雲散霧消させている。それが吹き溜まったと思われる。ハレとケをきっちりと区別することのできる旅にするか、交錯するハレとケの、日々身の裡を通過する感触をその都度きちんと書き留める作法を備えるか。そのどちらかのかたちにしなければ、再び37番札所の先へ足を向けても、たぶん2週間ほどで「飽きちゃう」に違いない。

(3)ハレとケに区切りのついた旅となると、出発前にコースや泊地を設定したり、あるいはパック旅行に乗っかったりする旅となる。それはそれできっちり区切りがついて、それなりに面白いと思うが、「お遍路」の面白さは、すべてを成り行きに任せ、しかもその都度自前でコースや泊地を決める作法があってこその「同行二人」にあるんじゃないかと思う。ハレとケを往き来することでわが身の来し方と現在、お大師さん(あるいはもう一人の「わたし」)と同行しているという軽い自省的緊張感が保たれる。それがなかったら、「おへんろ」は「遍路」に向かわない。ということは、ハレとケの入り交じった旅に私は、まだ馴染んでいないということか。つまり私の旅感覚そのものを見直して見よということかもしれない。

(4)つまりこうも言えようか。ハレとケが入り交じる旅、しかもその土地土地、そのときどきの感懐を綴るおしゃべりができるとなると、いま毎日2時間程度の時間を取ってPCに向かっている時間を取らなければならない。とすると、午前十時のチェックアウトで宿を出て6時間程度歩く。15㌔から25㌔か。疲れ具合からすると最大20㌔を目安にすると、次の宿に着くのが4時頃になる。うん、ちょうど良い。モバイルの重さが加わるくらいなら、そう負担にはなるまい。

(5)1日の歩行を最大20㌔とすると、じつは、ただ単に歩き方だけでなく、旅のかたちにまで変更を余儀なくされるような気がする。ひたすら歩く。それが私の歩き方であった。山もそう、町でもそう、日々の散歩ですら、ひたすら歩くだけのことを得意技としてきた。振り返って、そう思う。たぶんこれは、私の気性に起因すると思うので、「ひたすら」を「ぶらりぶらり」に変更して、のんびり、その場を味わいながら歩くというのは、そう簡単にできることではないと思います。だが、それをせよと八十を越える身が要請しているのかも知れません。そういう端境に立っているってことを、今度のお遍路は教えています。も少し子細に見ると、常と違うことに立ち止まって言葉を交わし、あれこれ話を聞くというよりも、むしろ常日頃親しんでいるのと同じことに目を向けて、そこに新しい発見をするようなミクロへの興味関心の向け方を試みてごらんと示唆しているように感じます。逆に言うと、ケをハレに転じる視線こそが、身の裡側から「せかい」への関心を保つ秘訣だよというわけですね。でもそんなことって、できるだろうか。


 ま、こうやってあれこれ思案しているのが、「わたし」のクセ、身についたおしゃべり。「色即是空、空即是色」に現世で向き合う方法は唯一つ、その都度、一つひとつのコトゴト(色)に丹念に向き合うしかありません。向き合ったからといって、それもすぐに霧消し(空となっ)てしまうわけ。その繰り返しがじつは「わたし」が体験している現実(リアル)ってことを、般若心経は(菩薩の立ち位置で)言っているのですね。

 でも、そうやって次の手を考えながら、齢八十の壁を越えて生きながらえる現世を元気に過ごそうってのが、「わたし」のやり方。

 彼岸を遠近法的消失点として、そこから此岸にいる「わたし」に視線を向けて現世を生きるというとき、これまで良く耳にした誤解は、彼岸の視線をそのまま現世に持ち込むやり方です。そういうやり方をすると、「空」ばかりが眼前に起ち上がって、「色」が消えて言ってしまいます。彼岸から見た「色即是空 空即是色」を、此岸に置いてみると、ミクロのリアルをそのように見て取りなさい、そうするとミクロの「色」や「空」を一つひとつ、現実のまなざしや振る舞いにおいてその都度、丁寧に向き合いなさいといっていると得心できます。

 逆に遠近法的消失点を抜きにしてしまうと、此岸の「色」だけが浮かび上がり、彼岸の「地獄」とか「極楽」といった価値的な有り様ばかりが目について、どこまでいっても「是空」がみえなくなる。彼岸を語る口調がじつは、此岸の迷妄や欲望や価値観を反映しているだけってことになって、つまんないではないか。そう私は受け止めています。

 なんだ理屈じゃないかと、思うかも知れません。そうじゃないんですね。身に刻んできた痕跡を通して、わが身そのものに「色即是空 空即是色」をミクロ・マクロを通観して体感してみようというのが「わたし」の手法です。理屈は、その体感のさらに向こうに起ち上がる意識世界。その理屈になる世界は、じつは古今東西の哲学者をはじめとする学者たちの識るし残した諸業績やそれを解読した方々の言説を孫引きするように参照して、わが流言飛語として身に取り入れて用いています。市井の老爺の戯言と、専門家はいうかも知れません。それでも一向にかまいません。わが流言飛語は、間違いなく、人類史的な知恵の堆積を受け継いでいると(我思う思索の航跡をながめて)、何の根拠もなく思っている次第です。

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