2022年5月30日月曜日

浮遊する「わたし」

 1年前の記事「あなただれのおきゃくさま?」を読んで感じたこと。

 この記事は、去年味わった人生の原点でした。1年経った今、それを忘れている日常に戻っています。なんとなくそれでいいかもというわが身の感触が半分、やはり原点を忘れちゃあいけないなあという思いが半分。後者がじつは、神は微細に宿ることを示唆していると思うが、今更それを身につけようという観念は、年寄りには無理筋という思いも湧き起こります。身に遵いて矩を越えず。とすると忘れていいんだよと、長く付き合ってきた躰が呟いているように思えます。

 たぶん「わたし」は、上記両者の狭間を浮遊していて、晴れときどき雨というように移ろっている。それをどちらかに落ち着かせたいという次元の違う心持ちが、これまた身の裡のどこかに巣くっていて、ふとした弾みに顔を出しているのだと感じます。でも、そうした心持ちの動きを意識すると、移ろっている「わたし」が面白いのであって、どちらかに落ち着いてしまったらつまんないじゃないかという呟きも聞こえてきますから、「わたし」の浮遊感が面白いのかも知れません。

 そもそも、確たる「わたし」があるわけではありません。そもそも「ことば」がわが身のものではないように、「わたし」は世間の文化的気風の諸々がほぼ80年分集積し堆積して出来上がっているもの。振り返って辿ってみると、浮遊していない方がモンダイってことです。いや歳をとると浮遊しなくなって、固執することが多くなるのだろうかと、プーチンの振る舞いをみていると思います。この歳になって「わたし」が浮遊しているなんて、素晴らしいと誰かが哲学的に裏付けるようなことをいってくれると、嬉しい。そういうところにいる。そんな感じがしています。 

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