2022年5月26日木曜日

オニが暴れる

 昨日の《「人が生まれるとき鬼も生まれる」と、内藤雅之が語ったことがあった》という言葉が、わが夢の中で暴れ回っている。まさしくブラウン運動。

「ヒトが生まれるときオニも生まれる」。ヒトは人の形をしているが、オニは姿が見えないが、ヒトが生きるエネルギー源、活力の元。ヒトは「オニを飼いならす」ことによって成長して人となる。飼いならさないと鬼になる。その途上における心裡の葛藤を、何時であったかTVの画面で口にした若者がいた。

「なぜ人を殺してはいけないんですか?」。

 その討論番組に出演していた「有識者」たちは一瞬絶句し、その後にそういう問いを投げかけること自体がモンダイという風に反駁した。その後しばらく雑誌などで、作家や学者や映画監督や有名人たちがその応えを口にしたが、「わたし」の腑に落ちる言葉はなかった。だが、青山文平の作品の主人公の上司が、見事に応じていると思った。

 かの若者は「鬼を飼いならす」のに手間取っていた。そう考えると、彼の疑問も腑に落ちるし、その後に続いた識者の応答が、なぜ応えになっていなかったのかも分かるように思った。識者は善悪のモンダイと考えて応答していたのだ。

 17世紀の初期に編纂された『日葡辞書』によるとオニは「悪魔。または、悪魔のようにみえる恐ろしい形相」とある。善悪二元論の典型的なとらえ方であり、「形相」にまでいい及ぶのはいかにも実体的な世界観が表している。

 だが大野晋によるとそれより古い中古の時代のオニがとらえられている。

《オニを表す漢字は「鬼(き)」。中国では死者の霊。「万葉集」ではモノ(亡霊・怨霊の意の上代語)と訓み、マ(魔=悪鬼の意の漢語)とも訓む。「和名抄」には鬼が物に隠れて姿かたちがみえないことから「隠(おん)」のなまったオニと称した》

 と古来のヨミを記したあと、

《『名義抄』では「神」に「鬼ナリ」と注し、「カミ・オニ・タマシヒ」の訓を記し、「鬼」には「オニ」、「邪鬼」には「アシキモノ」、「魔」には「俗ニ云ハク、マ・オニ・ココメ(鬼女)・タマシヒ」とある。カミ(神)は天地・海山・草木・鳥獣などの自然物、風雨など自然現象の一つ一つ、また家とか門などの個々の万物に備わった霊的存在で、形は見えず、恐ろしい力を持つとする。》

 と記し、善悪二元論に見舞われる前の、中動態的な用法に注目した。そしてさらに、

《また、人の命を支配するので、人は神に捧げ物をして、その恵みを受けようとした》

 と、人が鬼・神と共に生きようとしたことを記している。

 つまり大野晋の記すこの時代以降に、鬼と神が善と悪とに別たれ、それと共に人の身の裡から悪しきものとしてのオニを排除する傾きが生まれ、人はケガレを忌み嫌うこととして、身の裡から追い出そうとしたのであろう。現代に生きる「わたし」たちは、この善悪二元論にとらわれており、そうすることによって「オニ」が悪しきもの、「カミ」が善きものとして、双方共に単純化され、わが身の裡に宿るタマシヒの深さが失われていったと感じられる。それは同時に、生きるエネルギーの源泉に、善きも悪しきも共々に雑居して、それらを「飼いならす」ことが成長することとみなすというヒトの内面の複雑さと、それが作動するメカニズムの重層的な奥深さも失われていったと思われる。

 鬼と神とが一体であった頃の今を生きる此岸を見る中動態的視線は、まさしく「照照と考える」のでなければ、みえるものがみえないことを、身を以て日常毎として体現していた。それが善悪二元論的に分節されるとともに、みえるものしか見えない。みたくないものはみないというクセを身に刻むようになってきた。それが現在では無いのか。そう教えているように思える。

 オニが暴れる。カミも暴れる。暴れるソレをわが身のこととして取り込むかどうかは、「飼い慣らせるか否か」にかかっている。そう考えると、わが身そのものが動態的に変化し推移し、しかもその主体は「わたし」そのものという実感も伴ってくる。フェイクもヘイトも、戦争も平和も、みな共々にわが身の実感においてとらえ、理解し、心の総合力によって統一する。これこそが「飼いならす」こと。そう思って、わが身の「確かさ」を吟味しながら、日々を送る。これだ、これだ。そう思って、目が覚めた。

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