2017年3月1日水曜日

人間をどう認識するか


 先日NHK-BSのクール・ジャパンという番組を見ていたら、世界のシェア80%を占める日本のIT企業が「朝30分間、全社員で掃除をする」ことから仕事を始めている、というのが取り上げられていた。NHKは「掃除をすることによって(製造工程機械の)バグが取り除かれ、世界シェア80%の商品開発に成功した」と紹介していたが、感想を聞かれた外国人コメンテーターは「才能の無駄遣い」とか、「もし他に転職先があれば、その企業は選ばない」とそっけない返事が多かった。日本人側のどこかの大学教授は、「柔道とか茶道とか武士道といって、技芸の上達を通じてひとの生きる道を究めるという趣旨が盛り込まれてきたのが日本文化だ」という趣旨のまとめ的なコメントを加えていたが、外国人コメンテーターたちは「ふ~ん」と分かったようなわからないような顔をしていたのが、印象的であった。ほとんどだれも「クール」とは認めなかった。


 むかし、日本の学校で生徒に掃除をさせるのはおかしい、生徒は学校に勉強に来ているのであって掃除などの生活技法を学びに来ているわけではないのだと、議論を吹っ掛けられたことがあった。先進諸外国では、掃除は業者に委託して学校経営者の責任で行うのが常識、日本は遅れているというのだ。しかし「学校教育」という領域は、生徒が自律して暮らしていける力を身につける(という、わかるようでよくわからない)「役目」を担っていると教師も保護者も思っているから、「掃除」をさせること自体はそれほど問題にならない。

 では、上記のIT企業(の社員の間)ではどうしてそれが、「モンダイ」にならないのであろうか。そこには、会社とか仕事とかに対するとらえ方が、外国人コメンテーターたちのそれと大きく異なっているからである。日本人社員の間では、仕事は共に行うことと、会社は社員が共にいる場という観念が共有されている。つまり、仕事や会社で過ごす時間を、「場」を共有するところと思っているのである。「共同体」と呼んでもいいのだが、むしろ、一昨日とりあげた「アウラ=空気」である。

 この、「場」の感覚が日本の特有のものといえようか。己の才能を切り売りしているのではなく、まるごとその「場」に投じている。だから、「掃除」も忌避しない。「それは才能の無駄遣い」という見て取り方は、むしろ、自分を「ある才能」において分節化して生きているという表明である。それはまた、会社という「場」を諸々分節化された才能の集合体とみていることでもある。「才能」という断片を統合する部署にまかせて、自分は自分の才能を切り売りしているというのは、人間の存在として極めて不自然である。むしろ、「場」に身を置いて己の存在をまるごとそこへ投入しているという姿こそが、「自然」である。そう感じる私たち(日本人)は、「場」をこよなく大切にするのである。

 あるいはこうもいえようか。日本特有のものではなく、近代資本家社会がもたらした分業による協業の社会に生きる人間の「労働力の商品化」によって私たちは、我が身を切り売りしてきた。その、切り売りする前の、分節化される以前の原型に戻りたいという身体的要素が、日本にはいまだ強く残っているということかもしれない。私は、この感触を好感している。

 この違いに私は、欧米風の人間認識と私たち風の人間認識との違いを感じる。もちろん「自然観」の違いと言ってもいい。私たち自身が自然の存在の一部としてあるという認識か、私たち(それぞれの個体)が何某かの創造物であってある種の「完成体」を仮構して認識しているのかという、きわめえて大きな違いだと思う。74年を生きてきて、身の感じとる実感から前者を選び取っているのだが、後者の認識を肯んじえないのは、頑迷固陋だからなのだろうか。

 突き詰めて考えてみるに値するモンダイだと思った。

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