2017年3月11日土曜日

災後の「感動」ということ


 先月の「ささらほうさら」の集まりで、講師のKtさんが「小説とイデオロギー」をテーマにして加藤典洋にかみついた。そのことは先月の2/18、2/20のこの欄で書き記した。百田尚樹の『永遠の0』の評価を(百田の)イデオロギーで処断するのはおかしいのではないか、というものであった。加藤典洋がそのような物言いをするとは思えなかったので、Ktさんがとりあげた(加藤典洋の)『世界をわからないものに育てること―文学・思想論集』(岩波書店、2016年)を取り寄せて読んだ。Ktさんの読み違いであった。だが、その読み違いには、視点の据え方の大きな違いがある。それを考えてみよう。


 加藤の「論集」のうちKtさんが対象にした「章」は「1、災後と文学」。冒頭に「もう一つの「0」――『永遠の0』と島尾敏雄、吉田満」と題して、百田の作品が取り上げられている。そこでのポイントを叙述順に記すと、次の三点。

1)島尾敏雄と吉田満の特攻体験
2)百田作品の読後感と百田の創作に関する陳述
3)作品への「感動」と作家のイデオロギーとが表している時代性

 《この特攻隊の物語(百田尚樹『永遠の0』)は、この本(島尾敏雄×吉田満の対談を新編集した『新編 特攻体験と戦後』)の隣に置くなら、なかなかに心を動かす、意外に強力な作品と、そう受けとめる方がよいのではないかと感じた》

 と、2)にとりかかるところで加藤は書きはじめている。「隣に置くなら」という条件が付されているからには、彼の論評をとりあげるときには、1)を抜いてはならない。だが、Ktさんはそのことに触れていない。さらに加藤は、百田と彼の作品を原作にして映画を製作した監督との対談に目を移し、

 《この小説(『永遠の0』)のテーマは「生きるということ」と「戦争を風化させないこと」だと語り、監督もこれに原作は左右のいずれのイデオロギーにも「全然傾いていない」と同意している。また百田は、「できるだけイデオロギーを入れなかった」とも語っている。/それらを、言葉通りに受け止めるべきなのだ、と。》

 そう置いた後に加藤は、「これに対し、この本の島尾と吉田は、特攻についてわかりにくいことを語っている。」とつづける。そうして「見えてくるものは、次のようなことである」と3)へ移る。つまり加藤は、百田の「作品」が百田の言う「イデオロギー」と切り離されることを、「新しい現象だ」と受け止めようとしている。ここが、「Ktさんの読み違い」と私が断ずるターニングポイントなのだ。

 加藤は「イデオロギーで作品を判断評価する」と言っているわけではない。イデオロギーと切り離して作品の制作ができ、それが「感動」を呼ぶというところに「新しい」何かがあると読み取ろうとしているのだ。それをKtさんは、「イデオロギーで処断している」と読んだわけだ。この視点の違いは重要だ。加藤の視点は、起きている事象を読み取って世界を解読しようとしている。それに対してKtさんは、自らの観念を前提にして加藤を批判している。

 「誤読は読者の権利」とはよく謂われることだが、それは、誤読する処に表れるのは読者の輪郭世界だということなのだ。作品そのものは、それ自体として作者から離れてさえ、ある。ただ、私たちは作品それ自体を認識することは出来ない。読む人がどのような文化的な堆積に身を置いて、今どういう読み方をするかによって、「作品」はいかようにも変わる。読む人が違えば、読み取り方も異なる。そういう意味では、「作品」は読者によって乱反射するともいえる。だから作品が呼び起こす「感動」についても、誰がどこにいてどのようなところになぜ「感動」したかによって、一様ではない。むろん、イデオロギー的に読む人もいよう。それで「感動」するのだとしたら、その「感動」にはその人の輪郭世界が表出している。

 一人の読者である私は、だから、自身の読後感を振り返って己の輪郭を描きとるように言葉にしよとしてきた。とすると、作者を離れてある「作品」への評価、好悪は、ことごとく鏡に映し出された自身の姿にほかならない。左右の移り方が逆であったりすると考えのも、面白いとさえ思う。だからもしKtさんが、加藤のこの文章を鏡として見るなら、自らの観念を映し出していると読み取るべきなのではないか。そうすると、Ktさん自身の開放へとつながりもする。私はいつもそのようにして、作品評価は自身の輪郭のどの局面をどのように映し出しているかと考えてするようにしている。

 さて、3)で、加藤はなにを「時代性」として拾い出しているであろうか。じつは冒頭に記したように加藤のこの文章の「章」のタイトルは「1、災後と文学」である。加藤は百田作品の問題を「感動」において  斉藤環の論考を介在させて次のように言う。

《このたびの震災(東日本大震災)をへて、人びとは「感動」しやすくなった。……人々をやや安易に感動させるタイプのベストセラー小説、そのテレビドラマ化、映画化作品の波状的なブーム現象が震災後の社会の特徴になった》

 として、「半沢直樹」「下町ロケット」「永遠の0」などを置いて、こう続ける。

《文学作品を「感動の器」にする傾向が生まれている。それが書き手から読み手へと広がり、そこから、「感動」への抵抗というものが、文学のプログラムに入るようになってきた。これは、書き方の問題だが、読み方の問題を考慮に加えると、このたびの震災が文学に与える影響の質が、よりクリアに見えてくるのである。》

 そう言いおいて加藤は、柴崎友香『わたしがいなかった街で』を子細に分析してこう言う。

《東日本大震災と原発事故はリアルなもの(現実)とそうでないものとの差を、消し去ったのではかなっただろうか。これまで個物=個体として存在していたもの――イデオロギー、思想、好悪、信念――が、まず、カケラになる。それからそのカケラが、大きな全体に吹き寄せられる。そこで消滅は全体的な規模となる。大震災は、その大きな風の役割を果たした。それまで準備されていた変化を一気に顕在化させた。そのカケラの凝集作用による、個物の全体的な「一」への消滅の別名が、感動社会なのである。》

 長々と引用したのは、私自身が「感動社会」の中に組み込まれている(のではないか)という自覚があるからだ。自らがそれに唯々諾々と組み込まれているとしたら、自らの輪郭世界などと気取っていても、所詮、世情の真似事に終始しているにすぎないではないか。そう思うから、加藤がそれにつづけて「どう抵抗するか」と展開するのに興味を魅かれて、次のような結論的なところを共感的に読み取っている。

《この「感動」社会にあっては、断片的で、着脱可能で、ちゃらんぽらんであることが、もし方法として生きられるなら、抵抗となる。。脱力的であることが、方法的に選び取られ、行使されれば、力になる。》

 吟味しなければならないが、私自身のちゃらんぽらんさは生来のもので、「方法的に選び取られた」ものではない。そこがまた、批評家加藤と、ただの庶民である私の違いなのだろうと思っている(なお、特攻体験とイデオロギーに関して加藤がどのようにみてとっているかは、ここでは踏み込まなかったが、上記の「カケラ」と「一」を考えていただければ、おおよその見当はつくであろう)。

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