2017年3月19日日曜日
街の何を観ているのか
福島への旅の行き来に、鹿島茂『パリでひとりぼっち』(講談社、2006年)を読む。「骨休めの旅」だったせいもあって、読み終わった。面白かった。じつをいうと、鹿島茂という人が小説を書いているとは思いもしなかった。何年か前に吉本隆明を論じているのを知って、フランスの現代思想に詳しい哲学者かと思っていた。その彼の名を冠した本が図書館の書棚にあり、手に取った。意外にも小説であった。巻末の著者略歴を見て「19世紀のフランス社会生活と文学」を専門としていると知った。ま、肩書はどうでもいい。彼の吉本論が(もうすっかり忘れているが)私の肌になじむ感触だったことを覚えている。そういう傾きがあったから手に取ったわけだが、読み終わって、この方の視線が好きになった。
この小説は、第一次大戦がはじまる前、1912年の7月のパリが舞台。当事15歳でパリのアンリ四世校に留学していた日本人少年が、授業料と寄宿料の不払いを理由に放校処分になったことから、パリの街を放浪する。わずかな所持金で宿を探す、食事をとる、仕事を見つける、友人に出逢うという舞台回しをしながら、さながらこの主人公をガイドにパリの街の案内をしてもらっているような作品である。浮浪者は逮捕されてしまうというパリの条例にも驚くが、日本との文化の違いというよりも、階級社会フランスの面目躍如たる様子が浮かび上がる。観光旅行などでは決して見ることの出来ないパリの下層民がどのようなところにどのように働き、何を飲み食いして、どう暮らしているか、それを如実に書き落としている。
なんだ、鹿島茂という人はこのようなフランスの風物に目を配っているのだと分かって、私は親近感を懐く。もちろん、近代国家の中心都市の街というのが、ブダとペストや、山の手と下町というように、政治的機能の中心地域と商業娯楽文化の消費的地域とに分かれて形成されていることを知らないわけではないが、パリの案内書のほとんどは、いわゆる世界文化の中心地としての支配階層の文化をみる土地ばかりに限定されているかのようだ。ところが鹿島茂は、ことさらに放浪する日本人少年の目を通して、パリにおいて下層民として生きるとはどうすることかを、丁寧に、微細な人間模様を交えて描きとる。地方からとか植民地から出てきた人たちに加えて、ロシアと戦争をして勝った日本人への人びとの視線も、描きこまれている。この感触が私に親しみをもたらすのは、たぶん、敗戦直後の私の暮らした四国の中心都市の風景を思い出させるからであろうか。そう、私の身体に宿る「ふるさと」のイメージと重なるものごとを湛えながら、パリの下層の人びとのエネルギッシュな気配を感じさせているのである。
この鹿島茂という作者は「1949年横浜に生まれる」と奥書きにあることしかわからないが、中央方から地方への文化伝承の時差を勘案すると、案外7年ほどの私との出生の差は無視できるのかもしれない。彼の身体に沁み込むような、下層民への視線が「好ましい」感触をもっている。この事にこだわるのは、こうした民衆文化への視線は体に染みついたことがにじみ出るように共感性をもって描き出されるときに、はじめて人の存在の根柢に触れた実感を醸し出すのだと思える。そうでない文章は、たとえ下層民を取り出してはいても、憐れむべき、気の毒な、国家社会的に是正されるべき在り様として、つまりそもそも人間的な在り方ではないというメッセージを組み込んで描き出されていく。そうすると人間認識は単純になり、階級社会の上に立つ人たちのノーブレス・オブリージュは描かれても犯罪性は浮かび上がらない。下層であることは、ある種の遺伝性の社会現象になって行くのだ。だが、そこに身を浸した体感のこもる視線は、人というものの持つ業とか存在自体の厄介さをすべて肯定的に受け止める哲学へと結びつくのではないか。
もちろんそんな七面倒くさいことをこの小説が説いているわけではない。軽々とパリの街をさまよって、この時代、この人たちはこんな暮らしをしていたのねと面白がっている、エッセイのような作品になっている。いや、面白かった。
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