2017年3月3日金曜日

心の体幹を鍛える


 子どものスポーツを世話しているトレーナーが近ごろの選手育成の方法が変わったと話していた。陸上競技でも球技でも格闘技でもいいのだが、子どもの好みや「才能」を優先して選んでも、伸びるかどうかはわからない。だからむしろ、(どの競技種目と決めず)資質の優れた子どもを選んで体幹を鍛え、鍛えている間にどの競技に向いているかを見極め、種目決定をして選手として養成する、と。つまり子どもが出場する「試合」に勝つだけなら、ちょっとした誤魔化し技を取得すれば勝てるから、それで調子づいて取り組んでも、早晩、頭打ちになってしまう。それよりは、体幹という基本をしっかりとつくっているものの方が、伸び始めると飛躍的であるし、「試合/競技」に勝つこと以上に「試合/競技」に取り組むことそのものが(じぶんに対して)意味を持つと「内化」することができて、トレーナーの思惑を超えて力を伸ばすことができるというのだ。


 このトレーナーの着目点が、先日(2/28)話題にした「場」や「アウラ/空気」に身を投じて自律する(日本人的な)「道」の考え方に通じている。つまり、仕事のはじめ30分間全社員で掃除をするというIT企業の従業員は、掃除を通じて「ひととしての魂の体幹」を鍛えているのだ。こう言うと、どこか神秘主義的な響きを持ってしまう。

 だが、わが身を振り返ってみると、[a]ということを行ったり学んだりすれば[a]ということが身に着くわけではない。[始業初めに全員で掃除をする=a]というフィルムでは、窓を拭いたり便器の掃除をしたりする映像が映る。「いやだなあ」と思いながら便所の掃除をしていると、汚い仕事をさせられているという気分になる。だが、同僚が丁寧にそれをこなしているのを見ると、まずその同僚に敬意を懐く。その仕事の仕上がりに感心する。その仕事のやり方が(便所掃除ならずとも)、自分の仕事の(振舞いの)あれやこれやに欠けているとか、さらにそのことへの向かい合い方がどうであるかに思いが及ぶ(ことがある)。もちろん逆の受け止め方もありうる。つまり、[a]を行っているときの「かんけい」と自身の内心の思いとが象徴的にもかかわりをもって、「魂」(と仮に名付けておくが)の奥深くに響いているのだ。人それぞれの心のありようによって、受け止め方の広さも深さも違ってくる。だが、そうしたことを「全員で」行ったという「かんけい」の発する「アウラ/空気」は無意識のうちに身に沁み込んでもいる。それは[a]であったり、[A]であったり、場合によっては[b]や[B]になったりする。だから、「魂の体幹を鍛える」ということに通じているというのである。それが「通じている」と意識化されるのは、ひょっとするとずうっと後になってからかもしれない。あるいは一生、意識世界に浮かび上がってくることはないかもしれない。

 神秘主義的に感じられるのは、じつは、人の身(身体性と精神性)の不可思議さがもっている「わからなさ」ゆえである。それをわかったふうに(ある種の合理主義的なロゴスで)「絵解きしてみせる」のが神秘主義なのであろう。わからないことをわからないとしておくのは、神秘主義ではないが、わからないことを「ないこと」にしてしまっては、合理主義ですらない。

 この、わからないことをわからないままに受け容れ、(所詮)私たちの存在自体が大きな自然の一部であり、(私たちは)自然に包摂された小さな存在と認識したとき、何かを共にするということ自体が(たとえそれが便所掃除であったとしても)人のありようの基本であることと承知できる。共に何かをするということ自体が(己の)「心の体幹を鍛える」という「かんけい」においてとらえることをしているのだ。

 先に「魂」と「仮に名付け」ておいて、いま「心」と言い換えているのは、「心」は「かんけい」を感知する能力だと考えているからである。「魂」というのは(たぶん)その「心」の根柢に座るイメージを持っている。だが「心」は、現象的に現れる「かんけい」を受け止める感性だと考えるから、まず誰もが、この段階で受け止めているのは間違いない。それが「魂」に届くかどうかは、事象の響きがもたらす広さと深さによって、一概には言えないような感じがしている。

 こういった意識・無意識のとらえ方が、[始業のときに全員で掃除をする]ことに「道」を感じさせるのではないだろうか。これを「日本人的な」と言い切らないのは、ヒンドゥ教の感覚にも似たようなセンスが宿っているし、老荘の「タオ/道」にも通じると思うからだ。

 因みに、余計なことだが、儒教は「ひとのこと/人事」を始点とし終着点とする。それに対してヒンドゥもタオも神道も(厳密には違いがあるが)自然(しぜん)を起点としている。その違いが、近ごろの韓国の政情不安や従軍慰安婦問題、中国の反日路線に(よる正統性の証明に)つながっているように思う。儒教的な世界では、己の(存立の)正統性/正当性が人事的にしかとらえられないのではないか。だから日本人の私たちからすると、どうしていつまでも「反日」や「従軍慰安婦問題」にこだわるのかわからないのだと思う。私たちは、「自然(しぜん)」に由来して「自然(じねん)」には寄り添うが、「人事」はわりと水に流して恬淡としているように感じられる。

 そういう自然観が作用して[始業のときに全員で掃除をする]ことを(共に暮らしている感覚を大事にするセンスから)IT技術者もすんなりと受け入れているのであろう。それは、アジアの一角の偏狭なセンスというよりは、ひょっとすると、グローバリズムの先にみえる資本制社会の将来像をも示しているように考えるのは、身びいきが過ぎるであろうか。

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