2017年3月16日木曜日

馴染めないデジタル社会


 つい先ほどのこと。地図をプリントアウトしようとしたら、「プリンタの電源を切り、修理に出してください」と表示が出る。昨日もプリンタをつかい、別に不具合もなくA4版12ページ分をプリントアウトできた。はてこのプリンタはいつから使っていたんだっけ。保証期間はとっくに過ぎているにちがいない。「覚え」を繙いてチェックしてみると、2012年の12月に手に入れている。4年と3ヶ月になるか。そのときも、動かなくなったプリンタの購入店に相談に行ったら、チェックするのに1万円、修理代金はチェック後に見積もりが出ると言われ、「それよりこちらはどうですか」と言われて買ってのが、今のヤツだ。チェック料金よりも安かった。


 以前にも動かなくなり、「お客様相談窓口」に電話をすると丁寧な応対と適切な指示ときちんと治るまでの見守りとをしてくれて、助かったことがあった。電源を切って3分ほどして電源を入れると回復したこともあったから、それをやってみるが、同じ表示が出る。「エラー:×××」と番号が出て、「修理に……」となる。仕方なく、「お客様相談窓口」に電話をかける。

 型番と表示された「エラーメッセージ」を告げると、即座に「その型番の修理部品は昨年9月で保存期間が過ぎて用意されていません。故障は、本体の電源か電気系統の不具合によるものと考えられますが、もう修理することは出来ません。」と応答する。言葉は丁寧だが、もうダメですと言われていることに変わりはない。どうするの、こういうときは? と聞くまでもないことを訊くと、「代わりのプリンタを紹介しています」と、これまた丁寧に型番から値段まで並べ、すぐにでも送り届けることができると説明する。買い置きのインクカートリッジもつかっていないものなら、300円でネット販売する方法も教えて差し上げると付け加える。まいったね。

 こういう社会なのだ。でも、こんなやり方が通用するのは、高度消費社会に浸っている地域だからなのではなかろうか。インドやネパール、チベットを旅したとき、つかっているトラックやお客を乗せているランドクルーザーが故障すると、道端で彼らは車両の下に潜り込んで何やら修理をしていた。なにしろ、メーターが一度回りきってもう一度20万キロくらいになっているというから、総走行距離は50万キロにもなろう。それくらい、丁寧に直し直し、なだめなだめして使っていた。そういうところでは、こんなデジタル部品は修理できない。ということは、使えないではないか。日本では車もパソコンも、プリンタもカメラも、デジタル化して使い勝手が良いと考えているけれども、ひとたび故障すると、メーカーに預けるほかない。メーカーが、期限切れで部品もおいていない、修理も引き受けないとなると、使い捨てる以外に方法がない。なんという社会にしてしまったのだ。私は、自分が修理など自分でやる力もないのに、(こんな社会に誰がした、と)悲憤慷慨というか、悲嘆に暮れている。

 なんだかデジタル化によって、人間自体が変わってきてしまっているように思える。それでいいのかと誰も口にしない。「人間が変わる」ことを誰がどこに視点を置いてどう論ずるのか。そうだなあ、私なら、ごくご近所で手を入れ、修理して長く使い切るくらいのセンスが、身の丈に合っていると感じる。つまり今は背伸びして、身のほどを知らない暮らしをしているともいえる。欲望に歯止めはかけられないというけれども、そのままずるずると「人間」までが変わって、ひとさまの援けなくしては何一つできない「消費者人間」になってしまいそうだ。それはいやだな。

 そんなふうにボヤクくらいしか出来ない自分が情けない。いや私はいい。もういつ極まっても可笑しくない歳だから「人間が変わ」ろうとも、変わる前に身罷ることになる。だが、子や孫は、それでいいのか。ヒトはそれでいいのか。人類史的な視野をふと想いうかべて、そんなことを考えている。

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