2017年3月15日水曜日

原初に浸る感覚


 ふしぎな感覚で読みすすめた小説だ。川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』(講談社、2016年)。じぶんが解体され、原初の混沌の海に戻っていくような感触とでもいおうか。いますでに分節化されたのちに一体感を保っている「じぶん」が、もう一度分節化されて混沌の海へ投げ込まれているような、なつかしい感触なのだ。


 読みすすめても、「なんだろう、これは」という輪郭の取れないぼんやりとした疑問符が影のようにつきまとい、それを棚上げしながら、でも、そうそうそういうことってあるよと感じている。読みながらそのような読中感を引き起こす。あとから考えると、わが心をもて遊ばれているようなことだが、もちろんそのときは、そんなふうには思ってもいない。いつか通ったことのある道というふうな「なつかしい」感触がついてきている。

 先に読んでいたカミサンが「何だか壊れた世界みたい」というからSFみたいなつくりかと思っていた。もしそう決めつけるなら、Scienceではなく、PsychologyのSかPsyもしれない。舞台は、今から8000年後の世界。「わたし」が「わたし」に働きかけ、「わたし」が応じて「わたし」に語りかける。その場の設営を「なつかしい」と思うのは、「私」がかたちづくられてきたのは、たくさんの「わたし」を模倣し「わたし」になり、その「わたし」から分節化し「わたし」に孤立したのちに「わたし」でしかないことを自覚するという過程を通ってきて、いまなお「わたし」が「わたし」から決別しつつあるからである。こうきいてみても、たぶん、なんのことかわからないであろう。もちろんこの小説の設営をあらかじめ解きほぐしてみればわかるのだが、それを言っちゃあ、これから読む人に背くことになる。それにしても、こうしたわが身の裡の混沌に魂を浸して揺蕩うことができるのは、やはりこの作品の場面設定が「人間」の根柢に触れているからであろう。

 「人間」の根柢といっても、もちろん「魂」のことだけではない。母も父も、男も女も、神も宗教も、差別も戦争も、ついには植物も動物も、「人間」のこととして語りだされる。「戦争もしてみたい」というセリフが、そうだよなあ、そう思うこともあるよなと、得心するようにわが心裡に滑り込む驚きも、感じることができた。「わたし」の感覚や感性、身体や身や魂や、言葉や思念が「かんけい」のなかにおいて俎上に上がる。人の原初に浸り、世のはじめから隠されて来たことに触れるような「なつかしさ」が湧き起る。不思議な体験であった。

0 件のコメント:

コメントを投稿