2017年3月29日水曜日
美しくも危うい私たちの立ち位置
パキスタン映画『娘よ』(アフィア・ナサニエル監督、2014年)を観た。監督は女性。部族の争いの犠牲に供されて嫁ぐことになった娘を護ろうとする母親の視線が、母親自らの人生をあらためて生き直そうとする女の意思と重ね合わされて描き出される。高い山の中腹を削るように走るカラコルムハイウェイを疾駆する大型のトラック、その危うさが部族の習俗に逆らって逃亡する母子と逃亡を助ける羽目になった男の危うさとダブってみえる。それは、美しくも危うい。
十数年前にK2を観ようとこの地を訪ねたカミサンから、カラコルムハイウェイの道の危うさは何度も聞いたことがある。また私自身も、インドヒマラヤの無名峰に上ろうとヒマーチャルプラデシュ州へ入ったときの途次の山岳道路も似たような景観をみせていた。雪を湛えた山並みの遠景の美しさに反して、そこに身を置き疾駆することの危うさという対比は、人生を遠望するときとそこに身を置いて抗うときの対照に比肩する。人は因習の中で生まれ・育ち、そこから離脱するようにして「人間」になるという物語が、ここでも貫かれている。
映画が終わって、出演者、制作者、協力者へのスペシャル・サンクスの文字面も終わって、灯りがつき起ちあがって会場を出ようとしたとき、会場の前の方で誰かが声をあげているのに気づいた。振り返ると映画館のスタッフらしき女性が何かを言っているが、聞こえない。やっと誰かがマイクを彼女に渡したので、話しが耳に入った。「佐藤忠男さんが来ていらっしゃって、一言お話しいただけるということです。お聞きください」という。見るとかたわらに、やせ細った老人が立っている。佐藤忠男は1960年代に登場した気鋭の映画評論家である。たしか私より一回りも年上であるから、86歳を超えていよう。「なんだそういうことなら、はじめから言えよ」と独り言を毒づいて、ふたたび席に着いた。ひょっとすると、佐藤忠男がきていることを知ったスタッフが、映画終了後に急きょ交渉して言葉を頂戴することにしたのかもしれない、と後で思った。
「今の日本では当たり前のように恋愛結婚が当然視されているが、世界にはまだ親が決めた結婚を強いられる人たちの方が多い」と、佐藤忠男の話はつまらない。それが15分ほどもつづいた。ただひとつ、「パキスタン映画が日本で上映されるのは初めて」というのにちょっと驚いた。それほどにイスラム世界との交通は稀なのだ。パキスタン映画の音楽は、インド映画に響きも似てにぎやかで、インドのそれよりも少し哀愁を湛えている。ヒンドゥ世界の種々雑多の多様性と落差に比し、イスラム世界のコーラン的均質性の(のしかかる重みの)違いが表れているのであろうか。
インドのような社会的な「軛」をもたない日本は今、部族も習俗も、家族すらも失いつつある。人はすっかり、たった一人で社会に放り出され、お前の責任で生きよと「共同性/協働性」から解き放たれて、社会がもつ「規範」すら、交換経済の原理にゆだねてしまっている。「娘よ」というこの映画監督の声も、裕福な社会の特権的な立場にあることを満足させるにすぎないのであろうか。それとも、この映画と同質の「危うさ」を感じとっているのであろうか。そのギャップを受け止める情緒の回路を持っているかどうか。じぶんに問いかけているところだ。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿