2017年5月23日火曜日

クラウドベース資本主義


 ケイタイぐらい使わないと困るなあと思い始めたのは、公衆電話が街角から消えはじめたころ。もう15年ほど前になる。それがいつしか、今のうちにスマホにも慣れていないと、これから先何かと不便なことが多くなるよと言われるようになった。そうしてやっとスマホを手に入れ、せいぜいGPSと地図を使って、山歩きの迷子防止に利用している。ところが私がそうしている間にも、世界はもうすっかりスマホ全盛になり、社会的な交換経済の末端が変わりはじめているという。

2017年5月22日月曜日

戦後の後の女一代記(下) お金の呪縛から解放される


 さて、Seminarのご報告を二回にわたって記してきました。ちょうど私たちが社会人になって現在に至るまでの、経済社会の中心に焦点を当ててsnmさんの55年ほどをたどったわけです。口を挟む方にも、それぞれの人の持つ、家族や、男や女に対するイメージや、お金に関する観念が混在して、踏み込むとなかなか多岐にわたって、己の戦後過程をたどるように思え、感慨深いものがありました。そのいくつかを拾い出して、書き留めておきましょう。

戦後の後の女一代記(中) お金の使い方


(承前)
 病気を克服したsnmさんはすっかり会社から手を引いていました。あるとき、証券会社に勤めていた下の子が親もとに戻ってきていいかと相談があった。もちろん悪くないと思ったのだが、ご亭主に話すと、会社はもうすぐ潰れるぞ、うちの会社で働くことはできないよ、という。

2017年5月21日日曜日

戦後の後の女一代記(上)お金儲けが面白い


 5/20、第26回Seminarが開催されました。今回の講師は岡山から駆けつけてくれたsnmさん。お題は「お金の話」。事前に、親しい人から聞いた話をもとにして事務局の方で掲げました。彼女の商才が発揮され、ご亭主の億単位の借金を返済してしまったという武勇譚に刺激を受けたからです。はたしてどんな話になるかと思っておりましたが、意外や意外、戦中生まれ戦後育ちである私たち世代の、「女一代記」のようでした。といってもまだ彼女の人生が終わったわけではありませんから、一代記というよりも半生記というのが妥当かもしれませんが、「一代記」と呼んでもいいような一区切りのついたインパクトを持っています。

2017年5月20日土曜日

民意と民度と代議員


 共謀罪の法案が衆院を通過した。「採決強行」と新聞の見出しだが、与党の方は「粛々と審議を終え採決した」と何食わぬ顔をしている。それほど注目してメディアの報ずる審議過程をみていたわけではないが、トピック的に報じられる法務大臣の応答ををみていると、ひどいなあと思わざるを得ない。それを「粛々と審議をして……」というのは、要するに国会審議で何時間費やしたかだけが目安で、その中身などはどうでもいいと(言わないだけで)思っているからにほかならない。

2017年5月19日金曜日

法曹世界はいずれAIに預けて


 きのうの「ささらほうさら」の勉強会は、「争族にならぬための一考察のその後」。講師はnkmさん。昨年9月に遺産相続をめぐる家庭裁判所の「調停」を素材にして、話しをしてくれた。今回は、その後の「始末記」。これを聞いて、昨年のレポートがよく分かった。

 あらましを振り返っておこう。亡くなったのは高齢の女性Aさん。幼稚園を経営し歌手もしていたという闊達な方。入院して癌治療を受けていた。そのときに「自筆の遺書」を作成し、実家の弁護士に預けていた。家庭裁判所で「検認」を受け開封したら、夫のBさんへの遺贈分がなく、幼稚園への寄付とAさんの兄弟姉妹への遺贈だけ。それを知ったBさんは、遺産相続の訴えを起こすと同時に、「遺書」の無効を訴える裁判も起こすことになった。「争族」の誕生である。

2017年5月18日木曜日

自然観―世界観―人間観


 (承前……「何が悪者か?」2017/5/17)
 フレッド・ピアス『外来種は本当に悪者か?――新しい野生The new wild』を読んだ感懐をつづける。ピアスは動植物のことを問題にしている。それを私は、わが身に引き付けて、人と世界の論題として読み取ってきた。いわゆる「専門家の研究」に疑問を持ったというのは、ひとつは研究活動がものすごい速度で進んでいて、数年前の「定説」が覆される事象が次々と発見されていることによる。もうひとつは、その「発見」のベースに、決定的な「自然観・世界観」の転換があると、ピアスの論述を読んで思った。それは「人間観」の転換すら必要としていると読める。

2017年5月17日水曜日

何が悪者か?

                                                       
 フレッド・ピアス『外来種は本当に悪者か?――新しい野生The new wild』(草思社、2016年)は、ほんとうに面白い。いうまでもなく、動植物の外来種が生態系にどのように影響し、在来種を滅ぼし、自然を変えてしまっているかに視線を据えているのだが、これが、従来の外来種撲滅の自然保護とまったくセンスが違うのだ。目から鱗というが、これほど「専門家の研究」を疑いの目をもって見ることになるとは、思いもしなかった。

2017年5月15日月曜日

バカプリンタ――時代と社会に組み込まれて協賛する私


 このブログ(5/1)の「デジタルのあしらい方」でTVの画面が突然黒くなり音だけ出るというのに驚いたことを書いた。そのとき電源を切り、しばらくたったら修復したので、

「あははは、あのバカプリンタと同じだ」と私が言ったら、
「聞こえるわよ、そんな大きな声だと」とカミサン。

 とも記した。どうもその声がプリンタに聞こえたらしい。連休明けに行く山の地図をプリントした翌日、電源を入れると「修理に出してください」と表示が出る。おや、またかよと、「デジタルのあしらい方」に書いたように、コンセントを抜き一日たって電源を入れる。しかしまた 「修理に出してください」と表示が出て、一向に動かない。これを三度、三日間かけて繰り返した。だが今度は、頑として修復しない。「あしらい方」などと無礼なことを言いやがって、もう許さないとむきになっているのかもしれない。だがこちらの都合がある。今週の木曜日には印刷物を出さなければならない。動かないプリンタをもって家電量販店に行った。

2017年5月14日日曜日

かりそめの自由


 5/12の朝日新聞「折々のことば」にちょっと引っかかった。何にひっかるのかよくわからない。考えるともなく心裡に預けている。

《わたしを区切らないで/・(コンマ)や・(ピリオド)いくつかの段落/そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには  新川和江》

 を引用した後で鷲田清一は次のようにコメントを加えている。

《川のように果てしなく流れゆく私に「こまめにけりをつけないで」と詩人は言う。さらに、白い葱のように「わたしを束ねないで」、標本箱の昆虫のように「わたしを止めないで」、ぬるい酒のように「わたしを注がないで」、娘、妻、母などと「わたしを名付けないで」と。存在の固定を拒む〈自由〉への希(ねが)い。詩「わたしを束ねないで」から。》

 人は多面的である。人は変わる。「わたし」とか「じぶん」を意識しはじめたとき、すでに、その実体がないことに気づかされる。言葉も、感じ方も、立ち居振る舞いも、あれもこれも、ことごとくが見よう見まねでいつ知らず身につけてきたもの。つまり、「わたし」は混沌の中に生まれつつある(のかもしれない)、というのが最初の「じぶん」との出会いだ。だから、「わたし」とは世界から切り離された「じぶん」、それは「じぶん」から分け離された「せかい」でもある。影と形、陰と陽、絵と地、表と裏のように、どこからどちらを指してみているかによって、表現は違うけれども、じつは同じことを言い当てようとしている。そう、若いころの自分を振り返る。

2017年5月13日土曜日

あからさま


 昨日(5/11)のBSフジTVを観たら、「発射されたミサイルやその基地を攻撃するより、平壌を攻撃する方がいいんじゃないですか」と司会が問い、出演者がやりとりしている。えっ、と思ってしばらく、見とれたね。画面には、北朝鮮から飛んでくるミサイルの絵と、それを迎え撃つ地対地ミサイルや艦対地ミサイル、偵察衛星、戦闘機の絵が描かれている。まるですぐにでも戦闘状態に入るような雰囲気の言葉。タイトルは「敵基地反撃」とあり、その脇に、申し訳程度に「研究」と記している。

2017年5月11日木曜日

結構なアカヤシオの前日光三山


 朝3時ころ、自転車置き場の屋根を叩く雨音に目が覚めた。まいったなあ今日に限って……。6時前、傘をさして家を出た。東武日光駅に着くころ、雨はほぼ止んでいた。予定の全員がrent-a-carに乗車して細尾峠を目指す。細尾峠は、奥日光と前日光の山並みを結ぶ稜線を越える峠。旧日光市と旧足尾町を結ぶ街道の峠にある。いまは、日足トンネルが峠道の下を抜けているから、旧道にはほとんど人が入っていないようだ。落石が転がり、パンクしないかとはらはらしながらの運転。「いつになく慎重ですね」とmrさんがからかう。

2017年5月9日火曜日

チベットはすでに郷愁の里か


 チベット人監督・ソン・タルジャの『草原の河』(2015年)を観た。中国製のチベット映画である。なぜこんなややこしい言い回しをするか。映画の最後に表記される制作者、出演者、協賛企業などのいわゆるクレジットタイトルが、まずチベット文字で、次いで中国語で、さらに英語で付け加えられている。登場人物は、ほとんどがチベット人。だから、チベット語がとり交わされる。広い草原、雪をかぶった山並み、凍りつく河、積もる雪、羊の群れ、狼の登場、いずれもチベットの大地固有の景観を醸す。しかも物語は、老いた父親と息子の確執、若い夫婦の齟齬、生まれてくるまだ見ぬ弟妹と幼い娘との心理的葛藤、父、母と幼い娘の交歓を拾って、そうだよなあ、こうやって私たちはおとなになって来たんだよなと、時と処と時代こそ違え、心底からの共感を呼び起こす。だが、違和感が消えない。それが、ややこしい言い方になる。

2017年5月8日月曜日

破獄できるか


 録画しておいたテレビ東京開局50周年記念ドラマ「破獄」を観る。同じ吉村昭の作品を原作とした緒方拳主演の映画は逃げる男に焦点を当てていた(と思う)が、このTVドラマは逃げられる刑務官と逃げる男の関係を描きとる。逃げ出した先に、太平洋戦争を戦っている国家という檻があると、両者のやりとりのセリフが交わされる。はたしてそれからお前さんは「破獄」できるかと問うているようであった。北野武の演技がうまくなった。これまでの出演作品にはどことなくわざとらしい、ぎくしゃくとした振る舞いが持ち味のように加えられていて、それが私には「うまへた」を狙っているように思えていた。だが今回は、違う。ドラマ台本の設定した刑務官の仕事の背景に設定されている物語りが、ドラマの進行に伴って緩やかに浮かび上がるように、抑制された北野武の演技にほんのりと現れる。観終わって後に、戦後72年になる今日、私たちの閉じ込められている檻はみえているか、と問うているように、心裡の問いが変わってきているのに、気づく。終盤に登場する占領軍との確執にみえた日米関係が、今や日常から隠されて、わが日本の自らの選択として(政府ばかりかメディアでも)表現されてしまっていることに、囚われ人である私は、どう「破獄」できるだろうか。

2017年5月6日土曜日

公共施設の中規模修繕


 昨日予約図書が届いているというので、図書館へ足を運んだ。借り出すときに係りの方が、背中の壁に掲示してある「臨時休館のお知らせ」を指さす。「6月1日~」というのが目にとまる。月末の図書整理はときどきだったが、月初めは珍しいなと思った。が、仔細をみてみると、なんと「3月31日まで」とある。なんと10か月もの休館だ。「何か模様替えでもするのか」と尋ねると「耐震工事が入ります」という。たぶん、やっと予算がついたので施工することになったのであろう。でもなあ、工事休館はずいぶん前にわかっていただろうに、なんで一月前になって知らせるんだと、「突然」の予告に驚く。

2017年5月5日金曜日

「歴史の水脈」(4)みずからを対象化して自己の輪郭を描き出す


 4/28の「歴史の水脈」(3)につづけます。相馬という土地のもつ気風に育まれ、平田良衛の薫陶を受けて、いつしか日本共産党のシンパか党員かという立ち位置をもって大学生になったosmさんが、その後どのようにみずからの思想的遍歴をたどったのか。そこがじつは、先月の「ささらほうさら」のテーマだったのではないかと思うのだが、そこに入る前に時間が来てしまった。

 何故それがテーマだったと思うのか。osmさんの用意したプリントの末尾の欄外に、磯田光一の『左翼がサヨクになるとき』の文章が2節、何の注釈もなく引用されて置かれていたからである。それをまず、転載する(番号は私が振った)。

2017年5月4日木曜日

医師と教師の地位が逆転する? AI的にしか医療や教育を見ていない


 近い将来「医師と教師の地位が逆転する」とダイヤモンド・オンライン(5/2)が報じている。AIの開発が進化すると、ルーティン・ワークはその多くが機械に任されるようになる。ところが教育というのは人の興味関心を引き出し、自ら学ぶ意欲を開発することであるから、ルーティン・ワークとは異なる。医療現場と教育現場とのルーティン・ワークの占める割合を考えてみると、医療は圧倒的にルーティン・ワークでしめられている。いやむしろ、ルーティン・ワークでない医療はリスクが多いとして採用されていない。そういう意味では、医師の仕事はいずれAIにとってかわられるという。この記事は、したがって将来、教育に有能な人材を配置するためには教師の待遇を大幅に上げて、有能な人材を集める政策を採用すべきだと提言している。

にぎわう山


 連休の真ん中三日間、列島は高気圧に覆われて天気が良い。足ならしに山へ出かけた。バスで奥多摩湖から御前山に登り鋸山を経て大岳山をめぐって鳩ノ巣駅へ下るルートを考えていた。コースタイムは8時間ほど。ちょっとしんどいかな。それなら御前山を省略して、奥多摩駅から鋸山、大岳山と歩くと、7時間程度。

2017年5月2日火曜日

見事な死に方


 法隆寺長老の死亡記事が4/30の新聞に載った。76歳。見事だと思ったのは、「老衰で死去」とあったことだ。私はこの方のことは、まったく知らない。どういう生き方をしたか、どういうふうに亡くなったか知らないにもかかわらず、見事と言うのは、「老衰」にある。「栄養が足りなかったんじゃない?」とカミサンは一言したが、いまのご時世、いくら精進料理のお寺さんだと言っても、その補い方はあったろうし、栄養が足りないという診断も差し込まれる余地は、いくらでもあったろうと推察できる。つまり「老衰」は、この老師の意思を感じさせる。

2017年5月1日月曜日

デジタルのあしらい方


 昨日の夕方のこと、TVのスイッチを入れたら音は出るが、画面が暗いまんまで、しばらく経っても映像が出てこない。どこか間違ったボタンを押したろうかとチャンネルを変えたり、「画像」とか「画面」と書いてあるリモコンのボタンを押すが、一向に変わらない。台所にいたカミサンがやってきてビデオのリモコンをいじってみるが、それでも変化がない。