2017年5月21日日曜日

戦後の後の女一代記(上)お金儲けが面白い


 5/20、第26回Seminarが開催されました。今回の講師は岡山から駆けつけてくれたsnmさん。お題は「お金の話」。事前に、親しい人から聞いた話をもとにして事務局の方で掲げました。彼女の商才が発揮され、ご亭主の億単位の借金を返済してしまったという武勇譚に刺激を受けたからです。はたしてどんな話になるかと思っておりましたが、意外や意外、戦中生まれ戦後育ちである私たち世代の、「女一代記」のようでした。といってもまだ彼女の人生が終わったわけではありませんから、一代記というよりも半生記というのが妥当かもしれませんが、「一代記」と呼んでもいいような一区切りのついたインパクトを持っています。


 高校を卒業するころは引っ込み思案であったsnmさんが、東京に出てきて同窓の女友達とつるんで遊んでいたことを「学生時代のことはお話しするのも恥ずかしい」と一言で片づけてしまいました。だが後の話を聞くと、そのときに身につけた感性や感覚・センスが、大きく影響しているに違いないと思われました。そのあたりはまた別の機会に伺うしかありません。

 大学を卒業した彼女は「東京に馴染めない」と岡山の実家に帰ります。東京で一緒につるんでいた同窓の女友達に一人はkmkさん。彼女は「東京におりゃあええのに」と引き留めたような口ぶりでした。そこを振り切った心裡の動きを、私は少し仔細に訊きたいと思いましたが、snmさんの話はテンポよく次へと転がっていきます。

「自活しなきゃダメかな」とまず彼女は思ったそうです。実家が呉服を扱う商売をしていたこともあって、小さな、インテリアのお店でもやろうと思ったそうですが、でも儲けがいまいち。街の衣料品を扱っていたお店の主人が病になって、お店を任されるようになったので、商工会議所の保証人制度を利用して三百万円を借りて、今でいうブティックの走りをやりはじめました。(snmさんのセンスがええんじゃ。ブティックなんてものはありゃせんかったからねと、あとでkmkさんが口を挟む)。問屋の品を仕入れて販売するというのでは利も薄い。仕入れ値が六割や七割を占めると、全部売れても3,4割の利。実際は売れ残りがあるから、もっと利益は少なくなる。それならと、岐阜や神戸、大阪へ買い付けに行き、人の倍働いて利幅を稼ごうとあちらこちらへ飛び回って、コレという品物を仕入れた。当時はほとんど現金決済だったので、腹巻に現金を入れて買い付け、品をかついで新幹線に乗って帰っていました。そうすると、目利きもあって2割くらいで仕入れて、8割を稼ぐこともできるようになる。メーカーも開拓する。「利は元にあり」といいますからね。仕入れが第一と考えたわけよ。お店がお休みの日は、ほとんど仕入れに歩いていました。

 ちょうどそのころ、街の主要産業である造船も景気が良くてね、会社帰りの人たちが立ち寄ってくれ、買ってくれるようにもなった。(それって、いつごろ?)1970年代の前半、私が30歳を越えたころよ。(そうか。高度経済成長のど真ん中だよね。オイル・ショックは1973年の秋だから、そこまではものすごい勢いだった)。中心街の玉橋もにぎやかでね。一時に10万円くらい買ってくれる人もいた。(そうそう、インフレ率もすごかった。物価の高騰もあったが、金利も7%~10%なんて好景気の連続だったね。少し前の中国みたい)。

 それで、毎月70万円ずつ貯金ができた。叔父さんが特定郵便局をやっていたから、いろんな名義を使って300万円限度のマル優制度をつかって(何口も貯め)、年に一千万円、それがたちまち三千万円になる。当時の預貯金の金利が良かったから、それが十年で倍になった。300万円が20年で1000万円になった。こうしてお金を貯めるというよりも、お金が儲かる仕事自体が面白くて、夢中になっていました。

 (結婚は考えなかったの?)そう、まったく考えてこなかった。ですが、子どもは欲しいと思っていたのね。ふと何だか時機を逸するように思って、結婚することにしたんですよ。37歳で結婚。翌年に長女が生まれた。子どもは一人では寂しいだろうと思っていたから、40歳で次女を生んだのね。仕事で体がエラクなるけど、亭主はまったく(家事も私の仕事も)手伝おうとしなかった。結局、お店をひとに任せたんですが、やっぱり人任せでは仕入れも悪くなり、儲けにならない。そこで店を友人に貸し家賃を受け取るようにして、子育てに専念することにしたの。

 亭主は道楽者で、馬を何頭ももって乗馬を愉しんで、散財するような人です。もちろん(父親の経営する会社に)仕事はもっていましたが、男兄弟が何人もいて、それぞれが父親の会社のそれぞれの役職についていたんです。ところが造船が不況になり、父親が亡くなると、相続をめぐって兄弟間の争いが起こり、裁判沙汰にまでなりました。そのときすでに長兄の経営するレストランも経営が行き詰まって、借金が重なっていました。結局、次男が「逃げ」ました。自分の持ち株だけは手放さずに、会社の負債の連帯保証だけは抜けるというのを、後を引き受けることにした四男坊の亭主は承諾し、それがまたのちに(会社が持ち直した時に)分け前の取り分をめぐって争いになったりしました。

 私は、新しい会社を起こしたらと思って、そう亭主にもいったのですが、造船から仕事をもらうのに、新規の会社では思うようにいかないというので、父親のやっていた会社の(兄弟が分け持っていた)4000株を全部買い取ってご亭主が後を引き受けることにしました。簿価の4000万円で済ませるわけにもいかず、別に「和解金」5000万円を出して、会社を(兄弟から切り離して)亭主のもとに納めることになったわけです。その資金は全部、snmさんの預貯金から出しました。

 亭主は仕事はするのですが、支出の方が多い。自分はお酒も飲めないのに、人に御馳走しておごるのが好きで、月に100万円近く使っていました。キャバレーとかクラブとか、毎晩遊び歩いていました。会社の仕事が終わると、会社のロッカーに着替え一式を置いてあって着替えて出かける。遊びから帰るときに会社に寄って、仕事着に着替え直して家に帰ってくるという調子。だから私は、長い間、遊び歩いていると知らなかった。またそれがわかってからも、まあ、そういう人だと思ったから、好きにさせていた。

 そういうこともあったが、長引く景気の低迷もあって銀行は融資をしたがる。亭主も、金を貸してくれるというのだからと、必要以上の金を借りる。余計の金はどんどん使ってしまう。いつのまにか借金が膨らんで、1億くらいになっていて、会社が立ち行かなくなっていた。さあ、それから、家を抵当から外すとか私名義の連帯保証の債務を支払うために4000万円をもっていくとか、財産を保全するためにあらゆる手を打ちました。代表取締役に名を連ねていたのも外しました。そして会社を立て直しにかかった。ともかく経費がずさん。亭主は経営には向いていない。同じ商売をやっているけど、hmdくんは借金はしないというし、今日来ているiskさんも借金しない人でしょ。(借金できないのよとiskさん)。こうして、銀行から借りる――経営がずさん、亭主は散財する――私が借金の返済に奔走する――借金を返済する。

 借金がゼロになったときに、私が病気になった。2004年のころよ。厚生省の知り合いから口をきいてもらって築地の癌研に行き、癌研と同じ腕のいい医者が岡山にいるからということで、そちらに紹介状を書いてもらって、手術を受けた。この人は命の恩人だわね。救われた。下の子が大学受験のときで、面倒見てやれずに苦労掛けたわ。

 「お金の話」は、ずばり戦後日本が歩んだ経済成長の浮き沈みに翻弄されながら、泳ぎきったことに焦点を当てることになりました。「それ何年頃のこと?」と途中で口を挟みます。話しを聞く私たちも、そう言えば1970年代は二度のオイルショックを乗り越えて日本経済は高度消費社会へ突き進んだ頃のことでした。のであった、80年代はバブルに向かう勢いを持っていた、2000年代はリーマン・ショックの世界的な大変動があったと、わが歩いて来た道を重ねてみているようでした。つまり、「お金の話」というお題が、金儲けの話ではなく、お金に振り回されたがそこをしっかりと渡り切った半生の物語りになっていたのでした。幸運だった。

 さてその後にまた、ご亭主の会社の債務が溜まって、お金をつぎ込まなければならなくなるのですが、それはまた、次回ということにしましょう。(つづく)

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