2017年5月18日木曜日

自然観―世界観―人間観


 (承前……「何が悪者か?」2017/5/17)
 フレッド・ピアス『外来種は本当に悪者か?――新しい野生The new wild』を読んだ感懐をつづける。ピアスは動植物のことを問題にしている。それを私は、わが身に引き付けて、人と世界の論題として読み取ってきた。いわゆる「専門家の研究」に疑問を持ったというのは、ひとつは研究活動がものすごい速度で進んでいて、数年前の「定説」が覆される事象が次々と発見されていることによる。もうひとつは、その「発見」のベースに、決定的な「自然観・世界観」の転換があると、ピアスの論述を読んで思った。それは「人間観」の転換すら必要としていると読める。


 ジャレド・ダイヤモンドの記述を読んで「なるほど」と思っていた私は、フレッド・ピアスの読み解いた「研究」を読んで、「ほほう」と感心している。だが、その間には、大きな飛躍をしている。環境破壊というとき、ついつい私たちは「始原の自然」を前提にして「現在の環境」の行く末を推し量っている。そのとき前提にしている「始原の自然」がじつは、私たちの想念の中に想定された仮説(フィクション)であることを忘れてしまう。フィクションが悪いというのではない。私たちは仮説を立てることで、次に何を検証していくかを決めることができるから、(ある程度)論理的に導き出された仮説をどうしても必要とする。

 ところが、「仮説」にバイアスがかかることに気づかない。たとえば、オーストラリアの自然破壊というときに、羊を飼ったことがもたらした自然破壊は、論題にならない。なぜならそれは、必要不可欠と考えているからだ。いや「考えているから」というのは、まだ甘い。それが問題になることをつゆとも考えたことがない。先験的に、そう思い込んでしまっている。だから、自然保護ということを「外来種の駆除」と決めつけて清浄化をしようというのなら、もっとも根柢的には、人類を滅ぼすのが至上の施策だと言えるが、そんなことを考えている論考は(たぶん)ないにちがいない。

 フレッド・ピアスの論述する「自然」は、動態的である。外来種が蔓延るのはその生存に適切な条件があるから。在来種が滅びるのは、外来種が入って来たから(ともいえるが)ばかりではなく、すでに生存に適応しなくなってきていたこともあった。「自然」そのものがつねに移り変わり、いわば「始原の自然」はないと、繰り返し、ピアスは説いている。それほどに人間の活動は、1000年前でも奥地深くに入り込み、驚くほどの力で開鑿していたと、アマゾンの奥地に、かつて存在したと思われる(ピラミッドをつくるに匹敵する)文明の後があったことを記録している。つまり「手つかずの自然」は、もはやないと前提にして考えている。

 そういわれてみると日本でだって、私たちのイメージに強く残る田畑や里山、海や山の姿も、ほんの2000年ほどの形成物である。いやもっと厳密に、今風の田畑の耕作が行われるようになってからだと、せいぜい室町・戦国時代からともいえるから、600年から700年の期間しか経ていない。私たちの始原の姿をとどめる伊勢神宮では日々の御饌のために「火熾し」からしているという。その火熾しが弥生時代の初めころの火熾しのやり方というので驚いた記憶がある。それでもせいぜい、2000年なのだ。だから私などが「始原の自然」と身のうちに感じる「始原」など、たかが知れている。それでも私にとっては、とりとめなく懐かしさを誘う「始原/ふるさと」なのだ。

 根底的な「自然観―世界観」の違いは何か。自然も変わる。それも、ものすごいスピードで変わる。しかもその変わりようは、単純に弱肉強食ではなく、また単純に棲み分けでもなく、そこに存在するものが相互にかかわりを持つ「かんけい」の紡ぎだす生態系という脈絡にしたがって、変貌しているのだ。生態系というと私たちはついつい、あの球形のガラスのなかにおかれた金魚と水草の図柄を思い出す。閉じられた空間だ。たしかに1960年代に提唱された「宇宙船地球号」のイメージも閉じられた空間であったが、それゆえに「三尺流れて水清し」という「自然浄化」という発想が限界に来ていることを広く知らせるには、効果的であった。そしてじつは、自然の動的生態系の行く末は、人間のコントロールを超え出てしまっているようだ。わからない。

 だが環境保護の「自然観―世界観」は、そう簡単には変わらなかったと言える。ことにルソー的な「自然に帰れ」というセンスに基づく環境保護論は、現在の自分たちの高度消費社会的な暮らしには批判・反省の目を向けない点で、単なる「理想論」になってしまった。あるいは、こうもいえようか。環境を破棄する産業社会の進展やシステムを「批判」はしても、それに代わる提案をするでもなく、為政者にむけた「宣言」にしか過ぎなかった、と。思考法を掘り下げてみると、実体的な批判であり、「かんけい」的ではなかった。動態的に自然をとらえ、私たち人間の存在自体をもそこに算入してみることが必要であった。

 もちろん超えなければならない大きな壁があった。人間の欲望とその肥大化をすすめることに依存する資本制社会の原理に、どう自然を組み込んだ倫理的・道徳的在り様を組み込むかという課題だ。それは、単純に言えば、出発点に返って現在の社会体制をとらえなおすことでもあった。資本制社会の出発を言祝いだアダム・スミスの『国富論』は、倫理学者アダム・スミスの『道徳感情論』をベースにしていた。ところが資本制社会の展開は、人間の倫理を越えて、爆発的な進展を遂げ、いまや人間を踏み越えてしまいそうになっている。いまふたたび、人間の倫理に引き戻すことができるのか。それとも、人間の倫理もともどもに、自然の動的推移に任せてしまうしかないのか。ピアスは「The new  wild」という概念を導入して組み替えていこうと希望的に語っているのだが、、「人間観」ともどもそれが可能なのかどうか。

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