2017年5月8日月曜日
破獄できるか
録画しておいたテレビ東京開局50周年記念ドラマ「破獄」を観る。同じ吉村昭の作品を原作とした緒方拳主演の映画は逃げる男に焦点を当てていた(と思う)が、このTVドラマは逃げられる刑務官と逃げる男の関係を描きとる。逃げ出した先に、太平洋戦争を戦っている国家という檻があると、両者のやりとりのセリフが交わされる。はたしてそれからお前さんは「破獄」できるかと問うているようであった。北野武の演技がうまくなった。これまでの出演作品にはどことなくわざとらしい、ぎくしゃくとした振る舞いが持ち味のように加えられていて、それが私には「うまへた」を狙っているように思えていた。だが今回は、違う。ドラマ台本の設定した刑務官の仕事の背景に設定されている物語りが、ドラマの進行に伴って緩やかに浮かび上がるように、抑制された北野武の演技にほんのりと現れる。観終わって後に、戦後72年になる今日、私たちの閉じ込められている檻はみえているか、と問うているように、心裡の問いが変わってきているのに、気づく。終盤に登場する占領軍との確執にみえた日米関係が、今や日常から隠されて、わが日本の自らの選択として(政府ばかりかメディアでも)表現されてしまっていることに、囚われ人である私は、どう「破獄」できるだろうか。
憲法改正の機は熟したと安倍首相は言ったそうだが、はたしてそうだろうか。北朝鮮との緊張感が漂っているから、それに備えようという気分が広まっていることを「機が熟した」とみているのではないか。だから、自衛隊を「合憲の軍隊」として認知する憲法改正をしようと、改正のポイントを説明している。だが、対外的な脅威に備える必要についてはそれなりに「必要」という回答があるのに、国民の間の「憲法9条改正」への賛成割合は三分の一程度にとどまる。なぜか。「憲法改正」の支持率が低いのは対外的な脅威に鈍感なのではなく、政府に信頼をおけないからなのだ。自衛隊を軍隊に改正したら、いまでさえ「集団的自衛権」に踏み出している政府が、今度は「攻撃される脅威に対しては先制攻撃を加える」ことさえしかねないと「執政への不信感」を抱いている。
では、どちらが私たちの暮らしに重要であるか。いうまでもなく、後者だ。先の戦争で私たちは、国家が国際関係の中で生き抜くときの為政者の能力を思い知らされた。そこには天皇制国家というシステムが動き出すときの不都合も、随所に噴き出していた。そうして体験した敗戦という事実によって、私たちの内部で、国家と社会が別物だという思いが胚胎され、戦後の経済発展中心社会の進展に伴って、国家の方への不信感は「本音―建前」的に内部処理されて、為政者に預けられたままに過ごすことができた。日本の政治過程からみると、国際関係をアメリカに預けたままにきたことと、二重の構造になっている。
安倍首相(の憲法改正)は、じつは、その二重構造を打ち破っていこうとしているのだが、政治過程の「本音―建前」関係の整合性を整えようとすることに懸命で、社会と国家との乖離を手繰り寄せることには、旧来的な経済成長を再現しようという大言壮語以外に、知恵が絞られていない。そのために、将来的な暮らしにみる社会不安は、むしろ増大している。にもかかわらず、「機は熟した」とみて政治過程と社会状況の懸隔に目をつぶるなら、どこかで「本音―建前」の広がる齟齬に制度的な制約をかけなければならなくなる。バブルがはじけて以来次々と実施されている、国旗国歌法や教育基本法の改正、秘密保護法、共謀罪法案などは、そのようにして設けられた檻である。緩やかにとらわれていっている私たちは、破獄できるだろうか。
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