2017年5月5日金曜日

「歴史の水脈」(4)みずからを対象化して自己の輪郭を描き出す


 4/28の「歴史の水脈」(3)につづけます。相馬という土地のもつ気風に育まれ、平田良衛の薫陶を受けて、いつしか日本共産党のシンパか党員かという立ち位置をもって大学生になったosmさんが、その後どのようにみずからの思想的遍歴をたどったのか。そこがじつは、先月の「ささらほうさら」のテーマだったのではないかと思うのだが、そこに入る前に時間が来てしまった。

 何故それがテーマだったと思うのか。osmさんの用意したプリントの末尾の欄外に、磯田光一の『左翼がサヨクになるとき』の文章が2節、何の注釈もなく引用されて置かれていたからである。それをまず、転載する(番号は私が振った)。


(1)高度成長以前の日本だったら、貧苦にあえぐ階層を前にして『パルチザン伝説』の主人公は、大衆を侮蔑することはできなかったであろう。そこでは政治が過剰に倫理的に考えられたとしても、過激活動が倫理を離れたゲームの色調をもつことはあり得なかった。このときわれわれは、高度成長を否認する思想そのものが、高度成長の内側からしか生まれてこなかったという、大きな歴史の皮肉に出会うであろう。
(2)ソヴィエトの共産主義理念は、マルクス=レーニンの模倣によって成立し、共産主義的人間とはもともと〝模造人間〟なのである。事情は右翼民族主義においても変わりはなかった。国家や民族の原像が仮構され、その仮構されたものへのアイデンティフィケーションが集団の価値意識を形成する。その場合、左翼においては仮構された観念のシステムは、しばしば外来思想のシステムに依存しているが、その観念を生きる主体のメンタリティは、それを生きる民族の文化の表現とならざるを得ない。

 osmさんと私は、9年ほどの歳の違いがある。osmさんは団塊の世代の最後の人たちよりも、さらに少し後の生まれになる。しかし、私は日本共産党にかかわったことはなかったが、私が入学した60年代前半の大学は、教員も学生も、混沌とした左翼全盛であった。私自身、岡山の田舎の高校から宇野経済学を勉強しようとして大学を選んだほどである。これは5歳上の私の長兄が帰省した時に、東京の安保闘争の話とか、彼の専攻とは異なる経済学の話を聞かされて「刷り込まれた」私の思い入れであった。だから気分は左翼と言って間違いない。要は、時代の(知識人層の)気風が左翼的であり、かつ混沌の様相を呈していたのだ。

 宇野経済学を学ぶ過程と私自身が大学でかかわったサークル活動との関係で、私自身は「政治活動」と距離を置くことを学んだことによって、すぐ隣の友人たちが「政治活動」にのめり込んでいくこととの軋轢を感じて過ごし、そのことが私自身の「思い入れ」を対象化して、自らの輪郭を描き出すことによって「世界」を描きとるという方法を、かたちづくることに向かった。もちろん当時は、自分がそのような内的な作業をしていることさえ気づかずに、ただただ、観念と実存在とそれがもたらす実感との乖離に頭を悩ましては、自己弁解ばかりを内心でつぶやきながら、メンタルには混沌の生活をしていたと、今なら言える。それの一面を掬い取ったのが、上記磯田光一の引用文(1)である。私たちのおおむね皆の育った時代状況が、貧苦にあえぐ階層であった。そのなかから大学へ通うようになったこと自体が、パルチザン伝説の主人公に変身する場を与えられたように思いなして、自らの立ち位置を世界に位置づけようとしていたのであった。osmさんの育った時代は、すでに高度経済成長への道のりを着々と歩みはじめていた。

 osmさんがどのようなことを契機にして日本共産党的左翼から離脱しはじめたかを、正面から据えて「論題」としてもらいたかったが、今回は叶わなかった。ただ彼のレポートする「歴史の水脈」の文脈でいえば、私たちは須らく、生まれ落ちた地域と時代の気風に育まれ、薫陶を受けて一人前になっていくものなのだ。これは「刷り込み」と言ってもいいし、「洗脳」と呼んでもいい。

 ちょっと言葉にこだわっておくと、「育まれ」とはいうが「育てられ」とは言いたくない。「育てる」という語感には、育てる側の意思が張り付いている。じつは親自身も、あるいは成長期に日常的に近くにいる兄弟にしても、どう「育てる」という意思を注ぎ込んでいるわけではなく、じぶんたちの暮らしに一所懸命なのだ。気がつくと、そう育っているというのが、子どもの生育の実情ではないか。同様に「薫陶」とは言うが、「洗脳」とは言いたくない。もちろん社会の指導的な人たちは意図的に子どもたちを然るべき方向へ育てていきたいと考えている(かもしれない)から、外からみるとそれは「洗脳」だよと指摘できる(かもしれない)。しかし、子どもは、そう計算通りに育つわけではない。むしろ、言わずとも回りの人たちの言葉、振る舞い方、感じ方を真似て育つ。かといって回りにすっかり染まるかというと、必ずしもそうではなく、どこかでひとつクッションを挟んで、みずから学ぶべきを学ぶ。順接的に学ぶこともあれば、逆説的に身につけることもある。つまり「薫陶」を受けるのであって、「洗脳」されるわけではない。もちろん、自らの実存に必要な適応をするという本能的な性向があるから、自らの選択が挟まっている。

 言葉にこだわったのは、私自身に、「自(おの)ずからなる」ことへの抜きがたい傾きがあるからだ。他者に謂われ・言われて何かをするということへの拒否感は、極めて強い。自律心といえばいえるが、それほど突っ張った物言いを望んでいるわけではない。それ以上に、わが心裡のおのずから向かうところ、場の収まるところへ「おのずから」向かうことへの心地よさを感じている。これは私の自然信仰とか、自然観、実存感と深く関わっているのであろうが、その感性・感覚の出自がどこにあるかは、未だにつかみきれない。だがこの感性や感覚も、長い間の累々たる(人類史的)暮らしがかたちづくってきたものの、もたらしたことであろうことは、疑いない。

 「おのずから」ということは、欲望のままにということであるのかというと、そうでもない。気分のままにではある。ではでは、どこにみずからの「実存」の落ち着く先をみているのか。まず、「みずから」を意識しはじめたときすでに、「私」はかたちづくられている。集団的無意識とユングが言ったことがこれにあたるのかどうかはわからないが、生まれ落ちてすぐから生きつづけようとする意思を持っているかのように泣き、わめき、笑い、ものを食べ、言葉を覚え、起ち歩く。だがそれは、じぶんの力ではない。私を生み育む集団の文化的集積である。集団的無意識というのは、その文化的集積が、いまだ「じぶん」を意識しない子どもの身体にいつ知らず刻まれることを(外から見て)指している。これは「おのずからなるじぶん」である。そこでかたちづくられた感性や感情や言葉をベースにして、あるとき、「じぶん」を世界から分節する。このとき、集団的無意識としての「おのずからなる」ことと「じぶん」とが齟齬をきたし、乖離する。たぶん模倣によってかたちづくられた「じぶん」への嫌悪感が「おのずからなるじぶん」から「じぶん」を切り離そうとするのであろう。ということは、「おのずから」を対象とすることによってはじめて「じぶん」の輪郭をつかみ取ることができるようになるのである。

 ところが、古希を過ぎるほどの歳になると、「おのずからなるじぶん」と「じぶん」との懸隔がそれほど感じられなくなる。つまり「世界/じぶん」が、「わが身」としてほどよく折り合いをつけ、「身の程を知る」からであろう。「じぶん」を対象とするとき、なぜそう感じるか解き明かせないけれども、間違いなく自分がわが身に刻んできたことだけは確信できる。確信というのは、心裡の硬い思いではない。「じぶん」がじつは「世界」と同じであり、卑俗な一個の凡人にすぎないという思い。わが世界もまた、それと同じ器に盛られた想念である。だから、どちらが歩み寄っているのか、定かにはわからないけれども、「おのずからなるじぶん」と「じぶん」との齟齬が希薄に感じられるようになっている。「じねん」が肌に合う。あまりに人工的な環境にも馴れてしまって、「自然」ともそう隔たりがあるとも感じなくなっている。だから「自然に帰れ」と、いまさら言おうとも思わない。

 もはや現実世界から離脱して幽冥の世界にわたりはじめているんだよと、象徴的には、いうのかもしれないが、いや人間が変わってしまったんだよというのかもしれないと、思ったりしている。

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