2017年5月14日日曜日
かりそめの自由
5/12の朝日新聞「折々のことば」にちょっと引っかかった。何にひっかるのかよくわからない。考えるともなく心裡に預けている。
《わたしを区切らないで/・(コンマ)や・(ピリオド)いくつかの段落/そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには 新川和江》
を引用した後で鷲田清一は次のようにコメントを加えている。
《川のように果てしなく流れゆく私に「こまめにけりをつけないで」と詩人は言う。さらに、白い葱のように「わたしを束ねないで」、標本箱の昆虫のように「わたしを止めないで」、ぬるい酒のように「わたしを注がないで」、娘、妻、母などと「わたしを名付けないで」と。存在の固定を拒む〈自由〉への希(ねが)い。詩「わたしを束ねないで」から。》
人は多面的である。人は変わる。「わたし」とか「じぶん」を意識しはじめたとき、すでに、その実体がないことに気づかされる。言葉も、感じ方も、立ち居振る舞いも、あれもこれも、ことごとくが見よう見まねでいつ知らず身につけてきたもの。つまり、「わたし」は混沌の中に生まれつつある(のかもしれない)、というのが最初の「じぶん」との出会いだ。だから、「わたし」とは世界から切り離された「じぶん」、それは「じぶん」から分け離された「せかい」でもある。影と形、陰と陽、絵と地、表と裏のように、どこからどちらを指してみているかによって、表現は違うけれども、じつは同じことを言い当てようとしている。そう、若いころの自分を振り返る。
実体がない「わたし」は、とても「じぶん」を不安定にする。自分の感じ方、自分の意見、自己主張、変な振る舞い。それは「せかい」という外部との違いであり、時を経るにつれて「じぶん」の変容であり、つまり「わたし」は、そのときどきの実態しかないとわかったときに、「わたし」は「せかい」であると同時に、卑小でチンケな一匹の生き物に過ぎないと「さとり」の境地に行き着く。「わたし」を固定しないでというほど、執着する「わたし」をもっていない。いのちの鎖を繋ぐお役目を担っているだけ。それが途絶えたからといって、人類や生命が絶えるわけでもない。ただただ連鎖の一瞬の一端に遭遇しただけの存在。
「わたし」を固定しないでという「希い」が、しかし、外に向けられるというのは、この方は十分に「わたし」をもっているからではないのか。混沌の「わたし」は茫洋としてつかみどころがない。不安定どころか実存すら実感できない。かろうじて、その瞬間瞬間の「せかい」から分節化することによって「じぶん」の実存を感じる。そうやって、つかの間の「じぶんはじぶん」という感触を得て心裡の安定を保つほかない。分節化した「わたし」は、たちどころに変わり、また次の瞬時の分節化に身を託す。そうやって紡いできた「わたし」であり「じぶん」。もう誰にも希ったりしない。そうすることによって今わたしは、かりそめの〈自由〉を感じている。
なぜ、かりそめ? 「わたし」は「せかい」の大きな檻に身をおくことによって存在しえているのだから。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿