2017年5月4日木曜日

医師と教師の地位が逆転する? AI的にしか医療や教育を見ていない


 近い将来「医師と教師の地位が逆転する」とダイヤモンド・オンライン(5/2)が報じている。AIの開発が進化すると、ルーティン・ワークはその多くが機械に任されるようになる。ところが教育というのは人の興味関心を引き出し、自ら学ぶ意欲を開発することであるから、ルーティン・ワークとは異なる。医療現場と教育現場とのルーティン・ワークの占める割合を考えてみると、医療は圧倒的にルーティン・ワークでしめられている。いやむしろ、ルーティン・ワークでない医療はリスクが多いとして採用されていない。そういう意味では、医師の仕事はいずれAIにとってかわられるという。この記事は、したがって将来、教育に有能な人材を配置するためには教師の待遇を大幅に上げて、有能な人材を集める政策を採用すべきだと提言している。


 なるほど、教育というのが人対人の対面的な交通によって行われるというのであろうが、そういう側面で考えると、医療だってじつは医師と患者との対面的な交通によって診断が下され、治療が施されているのではないか。ただ単に患者ばかりでなく、その家族との関係とか、長年にわたる患者の生活場面と環境が、患者の病気と治療にかかわると見なければ「主治医」という概念も生まれない。つまり、医療はルーティンワークとみているこの記事の制作者は、現代医療がほとんど機械化されて、医師が患者を診るのではなく、患者を検査した結果を表示するパソコン画面を見て診断を下し、患部を見つけるとそれを除去する手術をし、薬を処方して、「ハイ、次」とやっている現在の医療の方法を追認している。

 もちろん機械による検査とその結果が不要と言うのではないが、その検査結果がその患者の身体の切りとられた断面であり、患者の全体ではないということを見落としているように思える。もちろん、フィジカルなことと同時にメンタルな要素も、AIが発展すれば、総合的にみてとることができるようになるのであろうが、私は「家庭医」とか「主治医」という呼び方に、それらすべてを(とどのつまりは外観的にでしかないが)とらえる人間の眼を期待している。だから、(顔見知りの)医師や看護師の穏やかな顔つきや視線や話しぶりが、柔らかだがてきぱきとした振る舞い方と合わせて、患者に与える安心感が醸し出す雰囲気が、欠かせないと思う。言葉つきがいくら人間に近くなったとしても、ロボット君が「あなたは逆流性胃炎におかされています。食事療法と薬を処方しますから、きちんと守って療養してください」と言われたとしても、それは「身体計測」の結果を知らせる書類が手渡されるのと変わらない。「ふん」と鼻であしらって受け取るような気がする。

 まあ、AI医療と通信方法が変われば、医師の少ない遠隔地でも、自宅にいてその程度の診断は受けることができるとなると、それはそれで結構なことだ。医者が今ほど入らなくなるかもしれない。だがそうなると、逆に、「主治医」のような患者と諸種の環境とを総合的にみて診察する医者の地位は希少として上がるかもしれない、と思う。医は仁術というのは、金もうけに走らないというだけではなくて、人のそれぞれの固有の実存を動態的に見ることができる「慧眼」の持ち主であることを意味している。ダイヤモンド・オンラインだから、ビジネス的にみているのであろう。そういう意味では、AIの作動する領域の限定性を抑えて、将来見通しを出すべきではないか。

 それと同じことを教育にも感じる。詳しくは踏み込んで書いていないから、批判するわけではない。だが、興味関心や意欲を引き出すなどと細かくいう前に、人がどのようにして言葉を覚え、感情や感性を育て、振る舞い方を身につけていくかをちょっと考えてみるだけで、ロボットに果たせないことがたいへん多くあることに気づく。簡略に言うと、人は周囲の人を真似て育つ。はじめは親のなにもかもを、兄弟姉妹のあれやこれやを、遊び仲間の挙措動作を、ことごとく真似ることから始める。ものごころつくころには、真似ることが揶揄うことであると思うアンビバレンツな心も生まれていることになるが、それらはみな、環境としての「人」である。つまり「かんけい」に生きることを身につけていっている。赤ん坊は、ロボットの真似でも動物の真似でもして、それはそれで彼・彼女の内面の何がしかをかたちづくるであろうが、それはどこかの早い段階で、人間ではないと見切る能力を身につける。同様に当然、ロボットのまねをして、自分が人間らしさを身に備えてきたと(のちに)思う子どもも出来するまい。その分別はどこかの段階で、はやばやと身につけるものだ。

 ビジネス的に教育を考えるときには、興味関心とか学ぶ意欲という、いわゆる社会的に有用な才能を引き出すことに焦点を当てて(ダイヤモンド・オンラインの記者は)考えているのであろう。だが社会的に有用かどうかもさることながら、教育は、才能を引き出すだけではない。それこそルーティンワークを身につけ、周囲の空気を読むことができるようになって、同調ばかりか反抗することも身につける。そうして、是非善悪を見極め、社会的規範を身に備え、周りの人との協調ばかりか独立不羈の精神を選び取る魂も獲得する。人格が形成されるというのも、全体的なヒトが人間になることを意味している。あるいは、そうしない。

 人が人を真似、そのことが引き起こす人の反応によって言動が変容していく。それによって起こる変化を生育・成長と呼び、それを見ている側から呼ぶと教育となる。つまり「教育」という言葉自体に、子どもをどう育てるかという社会的意図が組み込まれているのだが、近年それが、混沌としている。いやもう少し簡明に言えば、「能力」という社会的に評価の高い(収益性の高い)才能を育てることに視野が狭窄されてきている。収益性の高くない能力は「教育」と呼ぶに値しないかのようである。育てるというとき、自由社会ではことに、出自や環境によって子どもの成長が大きく左右されることを、たいていの人は経験的に知っている。鳶が鷹を生むもそうだし、蛙の子は蛙というのもそうだ。それをあたかも、その子ども本人の「才能」のようにみなすことによって、社会的評価は出来上がっている。

 だから、ちょっと考えればわかることだが、誰もかれもが収益性の高い能力を身につけることは出来ない。にもかかわらず、「義務教育」をすべての子どもに施すということは、子どもを選別する機能を学校に付与していることなのだ。それを「育てる」と勘違いしているから、「能力の低い教師が、自分のようになれと教育している現状」を(ダイヤモンド・オンラインは)嘆くことになる。有能な教師が携われば、それなりに開花する才能は違ってくるであろうけれども、だからといって学校の「選別機能」が消えるわけではないから、じつは、一律に優秀なリーダーを育てるという視点は、社会的に有効な発想かどうかも、疑われると、私は思う。

 いやじつは、学校という場の、子どもたちの相互の関係の中で、リーダー性も育てば、リーダーを支える人材も育っている。リーダーの足を引っ張る厄介な児童・生徒だって、リーダーになって行く子には欠かせない試練の実験地なのだ。自然発生的に、あるいは教室という空間の中の立ち居振る舞い方や言葉の使い方の「指導」を通して、あるいは指導はなされないが、教室の醸し出す気風の影響によって、子どもたちはそれぞれに成長していく。それを知っている親たちは、わが子を「よき環境」の学校に入れようと腐心している。そして我が子がそこに入学すれば、将来が約束されたように安堵する。それも経験則の教えるところとそう大きな違いはないから、社会的にもそのような学校評価が出来上がる。

 だが、社会的に何を「教育」に期待しているのか、明快でない。そもそも人として自律的に暮らしていく能力を育てるということ自体が、ピンからキリまであって、焦点がぼやけている。学校の教師は、結局社会的に有用な評価の高い能力を育てることを背負わせられながら、じつは行儀作法や食べ方や友人との付き合い方や嫌いな他者との向き合い方をも、しつけなければならない。教師の能力が高い/低いと傍目は言うけれども、優秀な生徒を集めている学校では、教師は自分の専門性に力を傾けることができる。それだけに専念して生徒をみることもできるから、余裕が生まれる。優秀な生徒と向き合っているということは、自らの励みになることにもなろう。だが、いわゆる低学力の学校の教師は、授業さえ穏やかに進行することができないのだ。それは教師としての能力が低いからではなく、生徒が端から学ぼうとしてくれないのだ。

 そこで、AIロボ君に「問題」。優秀な学校の生徒に教えることは出来るだろうが、学ぶ気のない生徒をどう机につかせ、教科書を開かせて教えるか。もちろんAI君ばかりではない。優秀な、高額を得ることになる教師たちは、どう教えるか。ダイヤモンド・オンラインも、そのあたりをとりあげて論じてくれないかな。もちろん教師を高額に処遇することに反対ではない。ただ、給料が低いから優秀な教師が集まらないという記者氏は、AI的にしか医療や教育を見ていない、と言いたいわけ。

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