2017年5月20日土曜日

民意と民度と代議員


 共謀罪の法案が衆院を通過した。「採決強行」と新聞の見出しだが、与党の方は「粛々と審議を終え採決した」と何食わぬ顔をしている。それほど注目してメディアの報ずる審議過程をみていたわけではないが、トピック的に報じられる法務大臣の応答ををみていると、ひどいなあと思わざるを得ない。それを「粛々と審議をして……」というのは、要するに国会審議で何時間費やしたかだけが目安で、その中身などはどうでもいいと(言わないだけで)思っているからにほかならない。


 そればかりではない。森友問題も加計学園問題も審議とは名ばかり、ぬらりくらりとはぐらかし、言葉が軽くて宙を舞う。ばかばかしくて国会中継なぞ観ていられない。ああ、こういうのが政治なんだなと、あらためて思う。そういうやつらを選ぶ国民が悪いという人がいる。若いころは、そうだよなあ民度が低いんだよねと(わが身をそこに算入しないで、無意識に)睥睨していたように思うが、今は違う。馬鹿にすんじゃないよ、代議士がバカなんだろ、そういうシステムに乗っかって胡坐をかいているんじゃねえのと、開き直る。選ぶ方が悪いとか、選ぶ方も悪いというが、それはほとんど選ばれた人たち(代議員)の居直りのようなものだ。彼らが選挙民をバカにしているのだ。だって考えてもみてごらん。だれもが選挙に出るわけにはいかない。被選挙権はあっても、暮らしのベースを整えないで政治家家業をするわけにはいかない。だから現行のシステムも含めて、出られる人しか出られないから、私らは選挙で一票を投ずるしかない。

 問題は、選ばれた人たちだ。選ばれた人たちをエリートという。地方議会も含めて言うと代議員だが、彼らは選ばれた瞬間に「全体の代表」になる。つまり彼らが「民意」なのだ。「民度」が高いか低いかは、彼らの振る舞いが表す。選挙民がバカだから代議員がバカなのではない。代議員がバカであるから選挙民がバカだといわれるのである。では代議員はどうすればいいのか。自分たちが選挙民を教育してやろうなどと思わないことだ。「全体の代表」なのだから、じぶんに投票した人たちばかりでなく、反対した人たちをも代表している。ということは、必死になって「全体」のことを考えなければならないのだ。それは、自分の考えとか、じぶんを支持する人たちのことを考えるなどという生易しいものではない。そこに暮らす民草として起こってくる出来事の一つひとつにどう対処するか、どう判断するか、どこまで明らかにすれば当面はよくやったと言えるか、それを、代議員である自分の全身全霊を傾けて力を注ぐことで、「民意」は高まり、「民度」は上がる。選挙民が悪いとか何とかいうのは、たとえそれが政治の世界と距離を置いたメディアの人であっても、プロではない。自分と(考えるレベルが)違う人たちを思い描くことをふくめて、上等か下等かという問題ではない。上下の序列をつけて考えること自体がすでに、自分を高みに上げて、「我がこととして考えぬく」努力を放棄している。もちろん立場による限界も、取り上げる論題の限定もある。そこを見極めて最上のやりとりをして判断を下すことが代議員たる政治家の、あるいは、「知る権利」を背負っているかのように振る舞うジャーナリストのあるべき姿ではないか。

 TVや新聞で報じられる程度の国会審議で「粛々と審議した」と「審議時間」ではかっている人たちは、間違いなく「民度」が低い。「民意」も持ち合わせていない。でも彼らをみて、そうか、日本も相変わらずだなと思うか、よくぞここまで来たと、72年前の敗戦時のことを想いうかべて評価するか。そこではじめて選ぶ方の「民意」や「民度」がどう変わったかが見えてくるのであろう。

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