2017年5月2日火曜日

見事な死に方


 法隆寺長老の死亡記事が4/30の新聞に載った。76歳。見事だと思ったのは、「老衰で死去」とあったことだ。私はこの方のことは、まったく知らない。どういう生き方をしたか、どういうふうに亡くなったか知らないにもかかわらず、見事と言うのは、「老衰」にある。「栄養が足りなかったんじゃない?」とカミサンは一言したが、いまのご時世、いくら精進料理のお寺さんだと言っても、その補い方はあったろうし、栄養が足りないという診断も差し込まれる余地は、いくらでもあったろうと推察できる。つまり「老衰」は、この老師の意思を感じさせる。


 もうずいぶん前になるが、『黄落』という小説であったと思うが、自らの下の世話を介護してもらわねばならなくなったときに、その母親は自ら食を断ち老衰していくというものであった。その潔さに、うろたえる息子のことはさておいて、感心もし、そういうのもいいが、果たして私に、そうできるだろうかと感じたことを覚えている。

 健康に死ぬことを目標としている私としても、それがどのような局面を迎えるかということについては、いっこう具体的にイメージしていない。山歩きをしているから、事故で亡くなるということはありうる。滑落とか、道迷いとか、疲労凍死とか、遭難の事例には(わが身のこととして)心当たりもあるから、これは考えないわけではない。あるいは街にいて事件に巻き込まれたり、事故でなくなるケースもありうるが、これらは、何があっても(これまで無事に来た幸運を思えば)不思議とは思わない。

 健康に死ぬというのは、突然死のような急性の病気に見舞われることも一つだ。急性の心臓死とか応急手当もできない(例えば山中での)脳梗塞とかだが、これも事故に近い。畳の上で死ぬことを考えると、老衰死こそが涅槃の境地なのではなかろうか。そういえば、ラホール美術館にある釈迦苦行像は断食中の釈迦、ガリガリに痩せてあばら骨が浮き出している。自らの死期を悟り、ご迷惑をおかけしました、ではでは、とご挨拶をして身罷るというのが、一番いいのかなあ。そうしたいものだと思う。法隆寺の長老がそうしたかどうかは知らないが、見事だと言わねばならない。でも私がそうするには修行が足りない、と言われるのはいやだなあ。いまさら修業なんて、とため息をつく。

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