2017年6月10日土曜日

神と語り合うウィトゲンシュタイン


 ご近所にある図書館が6月1日から来年の3月末まで閉館になっている。何でも耐震工事をするからとのこと。そのため、図書の返還や予約図書の受け取りを別のところへ移さねばならなくなった。次に近いところといえば、浦和駅そばの中央図書館。そういうわけで、このところ二日に一回くらい、浦和駅まで足を運んでいる


 先一昨日のように、外気温が25℃くらいだと歩いて行ける。夏日で涼しいと思えるようになったのだから、人の気分の適応力は(我がことながら)すごい。歩いて行ける。往復すると約1万歩超。運動としても悪くない。ところが昨日のように、最高気温31℃となると汗ばむどころか、大汗をかく。返す本を7冊も抱えては、いやになる。自転車に乗っていくと片道20分ほど。歩くのをやめる。まさに日和見お出かけだね。

 図書館は平日だというのに、人があふれている。この中央図書館は駅の真ん前の10階建て、パルコビルの中にある。8階フロアの全面をつかって、広くゆったりしている。蔵書も(たぶん)一番多い。アクセスにいいだけでなく、9階フロアが「コミュニティスペース」。集まって話をする、作業をする、そういうことに(たぶん10人×30グループほどが)使うことができる。むろん無料だし、予約もできるが、そうしなくても自由に使える。人と会うのに私は、ここをよくつかう。10階にも何か公共スペースがあるが、そこに足を運んだことはない。なにより空調が利いているから、図書館で過ごすのも体にいい。

 そういうわけで、お昼を食べてから出かける。午前中はわりと頭もクールだから、家で本を読んだりぼんやりと考えごとをしている。あるいは、パソコンのに前に座って、次の山のことを考えている。だがお昼過ぎになると、お腹もいっぱい、うとうととしてしまう。そこで、外出するというわけ。図書館はひっそりと身を隠すようにして座っている場所が結構多い。そういう読書オタクが屯するから、そういう配慮をしているのだろうと、私は喜んでいる。いやじつは、このために住民税を払っていると思っているくらいだ。

 昨日「新着図書」のコーナーを見ていたら、星川啓慈『宗教哲学論考』(明石書房、2017年)が目に留まった。ウィトゲンシュタインのときどき隠遁した阿「小屋」と「日記」のことに触れて、彼の宗教に対する「感触」に言及している。じっさいに星川氏が「小屋」を訪ねたことなど、エッセイ風の記述が面白くて、ついつい読みふけった。そのなかでひとつ、星川氏が強調点をつけて引用しつつ述べているウィトゲンシュタインの『秘密の日記』の一文が、私の胸中の何かとスパークしたように感じた。

《1937年3月26日、小屋から見える春先の温かい太陽の光が、彼に落ち着きのある宗教体験(一種の宗教的境地)をもたらしたことに寄与した。……ウィトゲンシュタインが神と向かいあるときに、「太陽」や「光」が果たした役割を述べている》

 と。星川氏は、ウィトゲンシュタインの宗教的体験(神と向き合って語り合うこと)は彼が死と直面したときに起きているとみているようだが、私が受け取った印象は、それとは違う。「太陽」とか「光」は、「自然」と向き合い、自然の融け込んでいる「己」を感じている時ではないかと思ったのだ。そう考えると、私自身が、モンゴルに行って四方に地平線が見える空間にもを置いて、「風とともに生き、天とともにある」と感じつつ暮らしているモンゴルの人びとの実存感に、「始原」をみた思いがしたのが、「宗教的体験」であったと受けとめることができる。それを「至福」と感じたのだ。

 ウィトゲンシュタインは「語りえぬことは沈黙するしかない」といったのになぜ神と語り合うのかと星川氏は疑問を提示し、「神について語ること」と「神と語り合うこと」とは別のことだと、当然過ぎてたいして意味のない分節化を試みているが。ウィトゲンシュタインがときどき身を置いたノルウェイの「小屋」のたたずまいが、まさに、人の世から孤絶しているかのようなところであったと分かる。それこそが、大自然と向き合い、そこに差す春先の「太陽」や「光」に神と触れ合う感触を得るのが、大自然に身を置いている「至福」と感じられる瞬間なのではないか。

 私は、神のことを語ろうと思っているわけではない。私自身は無神論者である(と思っている)。単に呪術的、原始的な自然信仰の痕跡を身体のどこかに残したまま、ナイーブに(素直に、率直に)生きている存在にすぎない。つまり獣と一緒。虫と一緒、植物とも一緒。大自然の前には、単なる一瞬の実存に過ぎない。それを不都合と思ったこともないし、不条理と感じたこともない。不条理は当たり前であって、合理的にモノゴトを考えるのは人の(悪い)癖というふうに思っている。ただ、悪く癖であっても、それをもって生きているからには、悪い癖がないかのように振る舞うわけにはいかない。悪い癖と向き合いそれを抱え込んで、死ぬまで付き合うしかない。それが大自然のごみでさえない私という実存の、生き方と思っている。

 ウィトゲンシュタインが行き着いたのは、ひょっとすると「大自然の中のごみでさえない実存」ではなかったかとおもいつつ、ヨーロッパに生まれ育った彼にとっては、絶対神という殻と格闘し、普遍という概念と駆け引きしなければならなかっただけに、私なんぞの考えが及びようもない境地に身を置いたのであろうと、考えるともなく思っていたのでした。

 星川さんの著書はほんのわずか、ちょい齧りしただけなので、私の勝手読みに過ぎません。借りて帰って子細に検討しようというほどの根気もなく、すごすごと2時間ほどを過ごして帰宅しました。でも、こういう本との付き合い方をする年寄りがいても(著者はともかく)大自然は許してくれますよね。

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