2017年6月18日日曜日
「留保」を乗り越え私たちの内面に迫る脳科学――規範はどう築かれるか(4)
(6/15の承前)さらに、金井良太『脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか』(岩波書店、2013年)を読みすすめる。
まず米国バージニア大の社会心理学者・ジョナサン・ハイトが提唱した、「モラルファンデーション」(根源的な倫理観の要素=倫理観を記述する概念の根幹にある五つの道徳感情)とは、次の項目である。この五項目がMRI画像などの解析を通して「観測」できるという。
①傷つけないこと、harm reduction(H)
②公平性、fairness(F)
③内集団への忠誠、in-group(I)
④権威への敬意、authority(A)
⑤神聖さ・純粋さ、purity(P)
この五つの項目を、次の(a)(b)の二項目に「解釈」し、《(a)(b)のどちらに重心をおくか、そのバランスによって、リベラルと保守主義への傾倒がわかれる》とみている。
(a) ①と②は、「個人」が価値観の中心に置かれている。「個人の尊厳」
(b) ③④⑤は、社会の秩序に重点。「義務などへの拘束」
この「解釈」の二項目は、「個人vs集団」という重きのおき方の違いとみると、旧来の対立構図と変わらない。そこを金井良太は「政治の脳科学」という「政治心理学」を動員して、次のような「心理的特徴」に置き換え、二つの軸(四つの項目の組み合わせ)にまとめあげた。二つの軸とは、
1)伝統文化を維持する立場 vs 社会における変化を推進する立場
2)社会における不平等を容認する立場 vs 社会における不平等を許さない立場
前者の立場を支持する人たちの根柢には、「不確かさへの態度」「恐怖への過敏性」があり、これが強い人は保守的なイデオロギーを魅力的で心地よいものと感じる。逆に、後者の立場を支持する人はリベラルに分類できる、と。もちろん留保を忘れてはいない。《これは生涯固定されるものではない。価値観のバランスが変われば変化する》と。そうして、以下のように「解釈」を加えている。
《政治的に保守の人は、死への不安、社会の不安定さへの不安、あいまいさへの不寛容、秩序を求める気持ちが強い。それは、他者の感情や潜在的に脅威である可能性に敏感な認知能力、また、不衛生なものへの嫌悪感が強い。それにたいしてリベラルな人は、新しい経験に対してオープン、認知的に複雑な状況を好む、不確かさへの寛容がみられる》と。
こうきれいに整除されてしまうと、「あなたはどこに位置する?」と聞かれて、私は戸惑いを覚える。
1)に関して言えば、「変化」にわりと適応力があるが、その土台に「伝統文化」が横たわっていることに関心を傾けている。「現状」が良いとは思わないが、私の身体に刻まれた「文化」には懐かしさを覚えて、大切にしたいと思っている。もっとも「変化」への適応力は、年々着実に衰えている。TVやラジオの速度の速い喋りにはついていけないと痛感することが多くなった。スマホがないと暮らせないような街中の賑わいは、そろそろ御免だと思う。
2)についても、何をもって「平等」といっているかによって、私の選択は変わってくる。私は人々が皆同じ(レベルの)暮らしをするのが当然とは思っていない。金を稼ぐのだって、「欲しい」人はそのような暮らし方をしていいし、そうして手に入れたお金を好き放題に使うことがあっても、非難するつもりはない。だが、贅沢をするわけでもなく、質素に静かに暮らしたいと思っている人が(病気や障碍を抱えたり、不運に見舞われたり、社会情勢によって仕事にありつけず)暮らせなくなることだけはないように、社会的に保障しなければならないと思っている。これは「不平等を許さない立場」なのだろうか、「不平等を容認する立場」なのだろうか。むろんその最低限の暮らしを保障することの財源はどうするのかといったところで、所得の高い人や財産を多く保有する人たちが累進的に負担を提供することも、必要だと思うし、そうすることが「不平等」だとは思わない。
むしろ「解釈」の方が「私の政治的軸」の方が、明快に「私はリベラル」と判定するように思う。これはどういうことか? 「心理的特徴」を「政治的傾き」に置き換えるところに挟まっているパターン化が余りにも型にはまりすぎて、時代的複雑さに対応できていない。
前回の記述につづけて金井良太は(アメリカにおけるタイプ)と断りをつけて「政治的傾向の四つのタイプ」を取り上げ、それが前掲の①~⑤の「観察」とどう関連している記している。
(ア)無宗教でリベラルな人……個人の尊厳H,F(高い)>1/2、義務などへの拘束I,A,P(低い)
(イ)保守的な人……義務などへの拘束A,I,P(高い)、個人の尊厳H,F(少し低いが)>P
(ウ)リバータリアン……義務などへの拘束(低い)<個人の尊厳は保守と同等(低い)←(外部から与えられた道徳や規制に反発し、個人の自由を尊重する)
(エ)宗教的左翼……すべてにおいて高い(保守に似ている)がH,Fは断トツに高い。
そうして、「政治的信条と幸福度」についての「アンケート」結果を結び付け、《「社会の不平等をどれだけ正当化できるか」によって幸福と考える度合いが決まる》と「解釈」している。
共和党支持者の幸福と考えている度合……46%
民主党支持者の幸福と考えている度合……26%
むろん「社会情勢によって変化する」留保は忘れていない。面白いと思ったのは「日本の研究事例なし」としている点だ。
アメリカの大統領選などをみていると強く感じることだが、アメリカ国民は(「隠れトランプ」という現象があったそうではあるが)政治的支持勢力を表明することにためらいがない。つまり彼らは、政治的な違いをもつことは公のことであり、その違いによって差別されたり処遇が異なったりすることはないと(その点では社会を)信頼していると言える。アメリカでは匿名性を嫌うと、(アメリカ取材の長い)あるジャーナリストが話していたことがある。街中でアメリカ人にインタビューを申し入れると、「これは名前を出して報道するのかどうか」と聞いてくる。名前を出さないと答えると、インタビューを断られることが多い。それに対して日本では、匿名を条件でインタビューに応じてくれる人の方が多い。つまり、社会において個が(互いに)個としての自律的な弁別の垣根をもっておらず、「個」というのが社会的な「かんけい」において(相互依存的に)存在していると感じているからではないだろうか。固有名を明確にして「私」を差別化することは、すなわち「差別」されてしまうと、(政治的立場の旗幟鮮明に対する)社会の処遇に不安を感じているからだと思う。この不安は、逆に、旗幟鮮明にする人に対する「差別」意識を自身がもっていることの表明でもある。
だから日本では、じぶんの支持政党を鮮明にしない。それはこうも言える。政治勢力の「党派性」が明快に異なる社会を心裡で想定していない。逆に言うと、「政党支持」という政治的観念/理念でパート(部分)をつくるほど私たちの「かんけい」は、個々一人ひとりの(理念や)観念が互いに確立することだと思っていない。「私」の中に宿った「ある政治観念」も、社会における諸種のやりとりによって(いつしか)かたちづくられたものであり、それを「私」の思いと決めつけることもできない、とでもいうように。私はその感覚を、ある程度根拠のある妥当なことだと思っている。根源的にはユングのいう「社会の集合的無意識」のように、「ことば」も「おもい」も、その根源にさかのぼれば、なぜいつから「じぶん」がそのような選好をもっているのかわからないことが多い。その「じぶん」への不確かさが、底流にある。
アメリカのほとんどの人たちは、ネイティヴではなく移民である。この大陸に身を置いた瞬間から、「異質なじぶん」を、いやでも応でも自覚せざるを得ない。そこでは、「私は私だ」と旗幟鮮明にすることによってかろうじて、身を立てることができる。「反定立」とでもいおうか、「異質であるじぶん」が「私」であるという自己定立の旗を立てないではいられない。そうしないと、無視され、馬鹿にされ、一人前扱いを受けることができないからだ。
日本では逆に、ほとんどの人たちが(長年の間に同化してきてしまった)ネイティヴである。だから「異質なじぶん」を撰目にすることは、みずからが稀人であり、外部の人であり、受け容れられるに超えなければならない垣根をいくつももっていることを表明するようなことだ。旗幟鮮明ではなく匿名こそが、ネイティヴの証ともいえるから、政党支持についてもはっきりさせないことを好むのである。
さて金井良太は、「イギリスの学生のVNM解析」をまとめて、次のように「政治的と相関する脳構造」の特徴をあげる。
1)前部帯状回……リベラルな人ほど、この部位が大きい。
2)偏桃体…………保守的な被験者は大きい。恐怖信号の検知をする。
3)島皮質前部……保守的な被験者大きい。不衛生なものへの嫌悪とつながる部位。
そうして、「解析の精度をあげれば、MRI画像から政治信条が推測できる」と「脳科学」は断定するのである。だが果たしてそれは、いくつの「留保」を跳躍して乗り越えているのか。私などは眉につばつけてみてしまうのだが、科学の「ご託宣」はどこまで私たちの内面に及ぶのであろうか。(つづく)
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