2017年6月11日日曜日

内面の道徳・社会的倫理?


 金井良太『脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか』(岩波書店、2013年)を読む。

《最近の脳科学や進化心理学の研究によれば、モラルは、人類が進化的に獲得したものであり、むしろ生得的な認知能力に由来するという。脳自身が望ましいと思う社会は何かを明らかにした》

 とキャッチコピーは説いている。モラルは生まれたのちに教育を受けて身につけるものではなく、生まれ落ちたときに(身に備わっている)認知能力によって(たぶんある程度)規定されているというのであろう。

 20年前だと、何だか胡散臭そうな臭いをかんじたものだが、脳のスキャン技術が格段に高度化し、感情や知的作用が脳部位の何処でどう働いているかを知ることができるようになった。人の振る舞いや情動と脳地図の関係も綿密になってきた。いわばその最高点を解説しているとみてよさそうだ。モラル(道徳やはては倫理)のベースとなる感情・感覚を脳や遺伝子という生物学的な観点から見直したと言えるのかな。


  私の眼を惹いたひとつの点について記す。倫理と道徳の概念を次のように記す。

《倫理(ethics)というのは外的に規定された社会的なルールのことで、職業上の義務などは倫理の範疇である。道徳(morals)というのは個人的な信条(プリンシプル)に基づく行動規範のことである》

《倫理というのは外的に規定された社会的なルールのことで、職業上の義務などは倫理の範疇である。道徳というのは個人的な信条に基づく行動規範のことである。……しかし、日常的な使用において、倫理と道徳ということばの区別があいまいになってしまうのは、個人のもつ道徳感情が社会で共有されることで、倫理という社会的な規範が成立しているからだろう。》

 これは、私のこれまで理解してきた「倫理」と「道徳」の概念と異なる。私は、「倫理」というのは人類に普遍的な社会規範であり、「道徳」というのは共同体に特有の社会規範と考えてきた。ところが金井は、道徳は個人の内面に規定されて発生する規範であり、倫理というのは社会的に共有される規範だとする。つまり、普遍的かどうかという論題はひとまず別の次元へ押しやられている。

 この(私と金井の)違いのひとつは、想定する社会集団が金井においては常に具体的にイメージできるのに対して、私の場合は「人類に普遍的な」とまるで空をつかむようなイメージになる。つまり私自身が、ヨーロッパ的な普遍性をどこかに仮構してモノゴトを考えていて、永遠に希求することとして「倫理」をとらえていることを示している。どちらがわかりやすいか、いうまでもない。金井の概念規定の方が、論じるにあたって共有するに、はるかにしっかりしている。

 もう一つの(私と金井の)違いは、私は「道徳」にも「倫理」にも、個人の内面を含ませていない。「道徳」は「私」が属する集団における社会規範であり、「倫理」は、世界にいろいろとある社会に通有する社会規範と、広く設定している。個人の内面は現れていない。ところが金井は、(社会)倫理の基礎となる(個人)道徳という階梯を組むことによって、道徳の根源が個々人の感情・感覚に規定されて表出するとみていることだ。したがって金井は、大脳皮質の特質によって形成され受け継がれている生物進化論の研究にまで視界を広げているわけだ。

 そこで、金井の論述に入る前に、どうしても触れておかねばならないことがある。金井は「個人のもつ道徳感情が社会で共有されることで……」と展開するのだが、個人の道徳感情が先験的にあって、それが集中したり集積され、交通している「社会」において倫理が発生すると考えるのは、個人の感情形成の過程が逆立ちしている。まず個人があるのではなく、まず、個体としての子どもが生まれ落ちた家族や地域共同体や帰属する共同体の規範が子どもの道徳のベースとなる感情や感覚をかたちづくるのである。文化人類学者であるなら、この、子どもの帰属する集団をバンドと名づけるであろう。生まれ落ちた個体としての子どもは、まず帰属する集団(バンド)において洗脳されるのだ。あるいはこうも言えようか。洗脳されて生まれ落ちてくる。

 この「洗脳」がどう行われているか、じつはバンド自体が無意識に行っていることでもある。具体的なイメージでいえば、親たちが、兄弟たちが、祖父母たちが、親類縁者やお隣さんたちが無意識でかかわっている振舞いの一つひとつが、その子どもへの「洗脳」なのだ。もちろんすべてが、順接的に受け渡されるとは限らない。いろいろなひとたちとの、さまざまな「かんけい」が錯綜するから、ときには逆説的に、あるいは突然変異的に、継承されて身についているかもしれない。

 そのバンドの規範を道徳というのであれば、それは私が当初考えていた「道徳」の範疇とさほど異ならない。その子どもが成長し、一人前になるにしたがって帰属する集団(社会)は広まり、あるいは多様になる。それに応じて彼の「道徳」は、彼の知らない世界(社会)の「倫理」と交通し、交錯し、「他者」を認知し、それを受け容れ、あるいは謝絶する「かんけい」をも知るようになる。もし認知的に道徳や倫理をとらえるのであれば、そのような構図を描く必要があるのではないか。

 そうしたことを前提にして、さて、「脳に刻まれたモラルの起源」に踏み込んでいこう。たぶんそれは、人類が無意識に選び取ってきた「かんけい」の航跡をたどることになろう。なにとの「かんけい」か。自然との「かんけい」であり、他の生物との「かんけい」だり、なによりほかの人びととの「かんけい」である。「モラルの起源」というからには、それらの「かんけい」における是非善悪のセンスがどう進化過程で発生しているかを解き明かそうとしているのであろう。面白い。性善説や性悪説が系統発生的に証だてられるようなことにでもなれば、反知性主義の源泉へも遡求することができるようになろう。

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