2017年6月26日月曜日

いじめは快感である――規範はどうかたちづくられるか(6)


 大槻久『協力と罰の生物学』(岩波書店、2014年)は、金井良太『脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか』(岩波書店、2013年)がとりあげてきた共感と利他性を、もう一歩生物学的なレベルに移して観察し、進化の現段階を解き明かそうとしている。


 まず、生物の中に見られる様々な「協力」に目をやる。台所のヌルヌル、これは有機物にとりついた細菌が「協力」してつくりだした多糖類がその正体。これによって排水溝の表面に流されないでとどまる膜状のバイオフィルムをつくるのだそうだ。一個の細菌では到底かなわない水流に、「協力」してバイオフィルムをつくって抵抗する。これをつくるに値する状況にあるかどうかを(それぞれの)細菌はシグナル物質を読み取って見極めるという。キイロタマホコリカビは、食べ物が乏しくなると多細胞の集合体をつくり、背を高くして先端に付けた胞子を遠くへ飛ばして飢餓を避けるという。そのとき、背を高くするために20%のキイロタマホコリカビが犠牲になり、80%の個体が生き残るチャンスを作る。こう聞くと、アリ社会における働きアリを思い起こす。あるいはイソギンチャクとクマノミ、大型魚とその寄生虫を食べる掃除屋・ホンソメワケベラとのような「共生」関係も例示として上がる。

 では、その「協力」や「共生」にタダ乗りするやつはいないのか。むかし日高敏隆らが研究した働きアリの研究では、20%は働いていなかったと報告されている。そこで、働いていないアリばかりを集めたところ、その80%は働きだした、とも。また逆に、働きアリばかりを取り出してひと集団をつくったら、やはりその20%は働かなくなった、と。つまり、なぜかわからないが、20%の働かないアリを抱えていることによって、集団の「危機管理(何か危急の事態が生じたときの対応)」がなされていると説明をしていた。

 タダ乗りするやつはいるのだそうだ。生物学の世界では「フリーライダー」と呼んでウィルスの世界からも、その存在が確認されている。しかも、日高敏隆の観察のように予定調和的には運ばず、フリーライダーばかりを集めたアミメアリのコロニーは、誰も子育てをしようとせず卵は腐りはじめ、衛生状態もの面倒をみようとせず、惨憺たるありさまになったという。

 大槻久はこの「協力」と「タダ乗り」の関係を人間の世界に持ち込む。その間に、昆虫や動物における「血縁関係」がどう作用しているかに目を向ける。ウィリアム・ハミルトンは「血縁者の間でならば協力行動が進化できることを」示した。そうして一人の進化生物学の研究者・ロバート・トリヴァーズに着目する。彼は、「直接互恵性理論」を提起する。必ずしも血縁でなくとも「もちつもたれつ」という関係に入ることを意味している。さらに彼は「フリーライダーに関する警戒心の進化を予測した」と大月は評価する。

 心理実験に「囚人のジレンマ」という「数学モデル」がある。「裏切り……すなわちフリーライダーになる魅力と、互いが協力してもたらされるよい結果が決して両立しないことを教えてくれます」と大槻は紹介する。それを介在させて「間接互恵性理論」が「血縁関係が助け合うという協力」の進化のかたちだと設定している。「情けは人の為ならず」という俚諺が浮かび上がり、道徳心の誕生につながる。

 大槻は「罰」の諸形態を、昆虫や動物の「進化」をたどりつつ、人の世界における「罰」へと論及をすすめる。「人は裏切り者検知が得意であり、検知されることに敏感」「罰は、互恵性の可能性がないときにも起こる」「報酬と罰は共に協力関係を促進するが、それらの役割は必ずしも対照ではない」と説くが、その一つに、私の気を惹いた「実験」があった。「人びとは、自分が他者を罰することに快感を覚える傾向があります。しかし、他者が他者を罰していても、その評価をあげようとはしないのです。……罰にはまだわからない点も多いようです」と、結論付けている。

 おおっ、これは、「いじめの快感」に触れているのではないか。「いじめ」がいじめる当人にとってどのような効用をもつのかは、とりあえず棚に上げておく。だが、「じぶんが行う罰は好き」というのは、そうすることによって「じぶんが、いじめられている当人とは違う」という確信を得ているのではないだろうか。「いじめは良くない」と格言的に教えても、それが効果をもたないのは、「いじめる快感」に通じているからである。これを出発点にしない「いじめ」論は、どんなものであれ、意味がない。

 大槻の論及は、こうして、「協力と罰」という社会システムが、どのような「進化的根拠」をもち、私たちの現在に「存在」しているのかへと、話しを繋げる。規範がどうかたちづくられるのか、佳境に入る。

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