2017年6月12日月曜日

世界はまだしばらく戦いに明け暮れる――規範はどう築かれるか(2)


 金井良太『脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか』(岩波書店、2013年)を読みすすめる。

 金井は「徳倫理学」と名づけている。《人間の内面にある「徳」を重要視する。理性のような知性を徳の至高のものと考え、節制などいくつもの道徳的な徳について議論している》と。


「徳」というとき私がいつも気にするのは、儒教(を受け容れた社会集団)は「徳」を実体的にみてきたことだ。人との関係において善く作用する(個人の)「徳目」として身に備えるべきことが挙げられる。たとえば「五常(五徳)」の「仁・義・礼・智・信」は、人倫における「善」の煮詰められた表出形であったかもしれないが、庶民に説かれるところでは「思いやりをもち」、「私利にとらわれず」、「立場をわきまえて」、「道理を心得」、「言を違えず人を欺かない」と説かれる。

 『論語』は必ずしも実体的ではなく、人倫と呼ぶ「かんけい」において「徳」を取り上げていたと思われる。「曽子曰く、夫子の道は忠恕のみ」とある。「忠は自分を偽らず、己をごまかさないこと」。「恕は他人を思いやり、相手の立場になって心情を理解すること」と「自他の関係」においていうというのが、「論語」の原義的理解である。それを「忠恕のみ」と一言にしているところに、「かんけい」への思いが漂う。だがそれが「忠」と「恕」に分けられて天皇制国家の規範におかれると、実体的に理解され、「忠は忠君」にすり替わる。

 上記の「徳」に対すると同じ懸念を金井の論述にも抱く。「道徳的な徳」が発露されるときの脳の部位の反応活動は、まさに実体的である。じつはその「反応」には実験者の「解釈」が挟まっているのであるが、実験者はそのことを「既定」のことと(仮定)して実験に臨むから、a=Aということを疑わない。それを金井は、そこをどう相対化していくか。それが読み取る私の関心にある。実験の成果を基にした論述自体を疑う視点を、門外漢の私はもっていない。金井の記述がその微妙な分節化をどう乗り越えていくか。

 金井はまず、「道徳的判断」がじつはいつもジレンマにおかれていることを前提にしておこうと推論する。「モラルジレンマ」として「思考実験」的によく取り上げられる、「トロッコのジレンマ(無人の高速列車が突っ込んでくるところで、1人を犠牲にする線路と5人を犠牲にする線路のポイント切り替え地点にいるあなたはどちらの進路にポイント切り替えを行うか行わないか)」、「歩道橋のジレンマ(高速の暴走自動車の少し先に人の集団がいる。歩道橋上の1人の人を突き落とせばそれを止めることができる。あなたは突き落とすか)」と問うて、その判断にジレンマが発生するのは、「人間の道徳的判断が、唯一の原則・原理に起因していると考えることのむつかしさ」と、まず断る。つまり、「道徳的判断」の源泉となる心情には複数の感情(moral foundation)が働いているとみている。

 ひとつ、道徳判断における感情の役割には「個人的な関与が強い状況では、感情と関わる脳の部位が関与している」と予想する。ことに「歩道橋のジレンマ」のような状況では、「社会性の感情と関わる部位でより高い活動が起きていた」。つまっり、「直感的で感情的な機能(内側前頭回)と認知的制御機能(背外側前頭前野)という異なる機能が関与」していたと、行間というか余白をいくつか置く。

 その「道徳的判断の源泉となる感情」として、米国バージニア大の社会心理学者・ジョナサン・ハイトが提唱した「五つの倫理基準」を紹介する。「モラルファンデーション理論」と呼ばれているらしい。根源的な倫理観の要素(倫理観を記述する概念の根幹にある五つの道徳感情)に絞れる、と。

 「五つの道徳感情」は、① 傷つけないこと、harm reduction(H)。② 公平性、fairness(F)。③ 内集団への忠誠、in-group(I)。④ 権威への敬意、authority(A)。⑤ 神聖さ・純粋さ、purity(P)。
 (a)①と②は、「個人」が価値観の中心に置かれている。「個人の尊厳」を意味する。(b)③④⑤は、社会の秩序に重点。「義務などへの拘束」に重心を置く。
 (a)(b)のどちらに重心をおくか、そのバランスによって、リベラルと保守主義への傾倒がわかれる。

 そう前提を置くことによって、「脳の中のモラルファンデーション:VBD解析を用いて探索」を開始する。その段階を次のように設定する。

(1) MRI画像を用いて性格などの脳の構造の個人差の対応関係を見つけ出す手法。
(2) 脳の構造画像を撮影し、そこから灰白質の局所的な量などを定量化し解析する。
 そしてそこで、
(3) 我々は個人のモラルファンデーションと相関する脳の部位を見つけ出した。
(4) どのような道徳感情に基づいた倫理観を重視するかは、脳の構造を反映している。

 と(3)を「発見」し、(4)と解明したというわけ。それを逆の方から「証明」しようとして次の問いを繰り出す。「では、脳の損傷は、倫理観の基盤を崩すだろうか?」……その結果について、「脳損傷患者の症例では、異常なまでに公理的に倫理判断を行うようになった」と結論づけている。

 (1)~(4)の実験をイメージしてみると、私たちの「道徳」がバラバラにされ、五つの断片にまとめられ、もはやどこにも原形をとどめない。「ファウンデーション」だから、その表出としての「道徳」は絡み合って、まったく違うかたちになって現れるのは、当然である。だが、個人の脳内に生起する「ファウンデーション」が「道徳」を発露させるというのは、「逆立ち」している。あくまでも「ファウンデーション」と「道徳」が関係があるとみることによって「(VBD解析を通じて)その部位がどのように遺伝によって」受け継がれているかを、仮構することができる。そこまできてはじめて、生物進化論の俎上に上げることができる。だがあくまでも「逆立ち」している。個人が起点ではない。個体の胸中(脳中)にファウンデーションを(「洗脳」によって)かたちづくるバンドの規範こそが、「道徳」の源泉である。そこを踏み違えると、いかにも脳科学の実験によって人の道徳規範が把握できるかのように、錯覚してしまう。冒頭に私が抱いた懸念は、消え去らない。

 ひとつ気になったことがある。上記のアンダーラインの部分、「脳損傷患者の症例では、異常なまでに公理的に倫理判断を行うようになった」こと。近頃、受動喫煙にしても保育園の子どもの声がうるさいという「騒音」にしても、社会的な価値判断が白黒の極端に偏るように思えてならない。いや、あいまいな方がよいというのではなく、白黒つけなければ治まらないという社会的風潮は、ひょっとしたら、私たち(高度消費社会における)人間社会が全体的に「脳損傷患者」になりつつあるのではないかと、思ったのだ。それが逆に、(「徳」の)「義(私利にとらわれず)」どころか、「自分ファースト」に私利私欲を追及するのは当然というトランプ現象を表出させているのではないか。つまり、世界的な規模で、「人間(社会)」が変わりつつある。

 もしそうだとしたら、「私利剥き出し」の(バンドの)「道徳」を超えた世界の「倫理」を見通すのは、国民国家というバンドの激しい確執と闘争を通じてしか、できないのではないか。とすると、世界はまだしばらく、落ち着かない戦いに明け暮れることになる。いやだなあ、ごめんだなあ。

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