2017年6月27日火曜日
「いじめ」は進化に不可欠――規範はどうかたちづくられるか(7)
昨日、大槻久『協力と罰の生物学』が「いじめの快感」に触れた「実験」について、このブログに記した。それに対して「大槻がどういう実験をしたのか。本書を読めばわかるとは思うが、そこを記さないでは、あなたが何に信を置いて『いじめの快感』と思ったのかがわからない。」とメールをいただいた。たしかに、そこまでの、金井良太『脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか』を読むのと比べたら、ずいぶん大雑把な紹介になっている。大槻はこの著書に「ヒトはけっこう罰が好き?」という1章を設け、「罰」にかかわるこれまでの考察を紹介している。
ヒトは集団生活をするにあたって社会的な認知能力を必要とした結果、脳容量を大きくしていったと「社会脳仮説」を紹介する。その社会的認知能力がもたらした進化のひとつが「協力」。そしてもう一つが、タダ乗りをする「フリーライダー」に対する「罰」であったと想定して、実験経済学では「公共財ゲーム」を行っているという。被験者(たとえば4人)に一定額をもち金として与え、そこから「公共財への投資」を募る。全額投資してもいいし、投資しなくてもよい。ただ、全投資額の3倍の利益が仮定され、それは投資額にかかわらず公平に分配される。とすると、投資しない人は「丸儲け」になり、全額投資した人は(それがもし一人だったとすると)3/4しか戻ってこないことになる。これを繰り返していくとどうなるか。当然、投資額は減少していく。この「実験」の、今度は「罰」を加える。「罰を与えたい相手」を指名していくらかを「指名料」として支払うと、実験者はその人から罰としてお金を奪い取る。むろん「指名料」は戻ってこないから、指名者はその犠牲を払うわけである。ところが、「罰」ありの「実験」を繰り返すと、被験者の「協力レベルは大きく改善した」そうだ。「罰」の存在を知っただけで被験者は、「公共財への投資額を引き上げた」。
ここで大槻は「なぜ人びとは罰を行ったか」と疑念を持つ。自ら犠牲を払って「罰」(指名)を行うことは、(公共財投資)全体への貢献にはなるが、自らへは単なる損失になる。さらに、自分は(投資はするが)「罰」を行わないで、利得だけを手にする「二次のフリーライダー」も出来する。そうなると、「罰」の脅威も減ってくる。公共財ゲームにおける「協力」自体が崩壊するのではないか。ところが予想に反して、罰ありゲームの協力率は高まった。それはなぜか、とつづける。
そこに「評判」が介在するとみる。実験では、被験者同士が顔を合わせることはないのだが、「罰を行う厳しい人がいた」という「評判」は起つ。その「評判」が《直接互恵性や間接互恵性が罰の背後に潜んでいる可能性を示唆している》と大槻は読む。では「こうした互恵性の可能性を完全に排除した実験をしたら、人は罰しなくなるものか」と仮定して、実験をすすめる。つまり二度と顔を合わせることのない場で「利他的罰」は行われるか。しかし結果は、相変わらずであった。事前の「二度と会わない」という説明にもかかわらず、
《罰の存在は単なる脅しとして機能しただけではなく、他の人よりも投資額が極端に低い被験者は、実際に多く罰される傾向があった。》
大槻は「頭でわかっているのに体でわかっていないというようなことが……起こりうる……(それほどに)我々は理性的ではない」と読み取る。「罰(のもつ意味)」が文化によって差があることにも分け入っている。
さて「いじめの快感」については、「非協力的な人や不公正な人に対して罰を与えるときに、われわれの脳のなかではどのようなことが起こっているだろうか」と自問して、「被験者にお金を渡してタスクを行ってもらう経済学の実験と、そのときの脳画像を記録する神経科学の実験を組み合わせ」る「神経経済学」の分野に踏み込む。この実験の詳細は割愛するが、先述した「罰あり公共財ゲーム」とは異なった「信頼ゲーム」を行っている。ちょっと長いが、紹介する。
《二人の被験者AさんとBさんには10単位の金銭が与えられる。AさんはBさんを信頼して、その10単位の金銭を渡すかどうか選択する。もし渡すことを選べば、実験者がそれを4倍してBさんに渡す。この時点で、Aさんは0単位、Bさんは50単位を保有する。ここからが実験のメインとなる。もともとはAさんがBさんを信頼して渡してくれたお蔭で50単位を保有しているのだから、Bさんは期待に応えて25単位をAさんに返してくれるのが当然と思う。逆に25単位が返ってこない場合、AさんにはBさんを罰しようとする動機が生じる。このような場合、Aさんはいくらかを支払うことでBさんに損害を与えることができる。その最中に脳画像を撮影した》
罰を行使できない場合に比べて、罰を実際に与えたときにより活性化している脳の部位を探したところ、「尾状核」が浮かび上がる。この尾状核は欲求が満たされたときに活性化することで知られる、報酬系と呼ばれる神経系の一部をなしている。つまり、罰を与えるときに「快感を引き起こす神経回路が活性化していた」のだ。大槻久は次のように結論的に読み取る。
《快感は、人がある行動をとるための積極的な動機となります。突き詰めて考えれば、ある行動に「快」の情動が伴っているということは、その行動をとることが進化の過程において有利であった有力な証拠です。罰と快感が密接につながっているというこの実験結果は、罰行動をとることが進化の過程で有利であった可能性を示唆しているのです。……このように人々は罰を好んで行い、またその行動には脳科学からの裏付けもあることがわかりました。協力をしない人を罰することで、社会において協力は促進されると考えられます》
大槻の関心が「進化」にあり、この本もそのために書かれているのだからこのような記述になるのはよくわかるが、私は「いじめの快感」を読み取ったわけだ。ある意味では、人の本性的な「かんけい」において「いじめが快感」として作用する衝動を進化的に獲得したともいえるのである。
大槻はそのうえで、先に述べた「罰あり公共財ゲーム」と「報酬あり公共財ゲーム」と「報酬・罰あり公共財ゲーム」の3種の実験を行ったケースを比較する。その結果、
《「報酬あり」条件でも、「罰あり」条件でも、公共財ゲームにおける投資率は、なにもないときに比べて高くなることが明らかになりました。罰の代わりに報酬を用いても、協力は達成できたのです》
と、「罰」と「報酬」との比較的関係へ考究をつづけている。彼にとって「いじめ」が関心外なのは別に責められることではない。とりあえず私は、彼の紹介した「神経経済学」の脳科学的な考察が、思わぬ「いじめ」の本質を浮かび上がらせたと受け止めた。ここまでが前回への補足である。「罰にはまだわからない点も多いようです」と大槻は述べていたが、「いじめ」は道徳的な心構えで克服できる事象ではなく、ヒトが進化過程で人となっていくために「必要」とした不可欠のことなのではないか。そういう起点をはっきりとさせたいと思ったのだ。
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