2017年6月22日木曜日
窓を通して世界をみる――規矩準縄を打ち破る衝動
今月の「ささらほうさら」の講師はnkjさん。お題は「My photo」。この方が写真やカメラや被写体とどう向き合って来たか、40枚ほどの写真をみせながら来歴を語った。それは彼自身の身の輪郭を描き出す振舞いであるとともに、彼が「世界」をどうみてとってきたかを浮かび上がらせる話しであった。なかなか興味深い響きを湛えていた。
仕事をしているときにも、札所巡りをしたり五百羅漢などの石仏を観に行ったりして、ときどきカメラにおさめてはいたそうだ。だが、「写真を撮ることに夢中になり羅漢はろくに観察しなかった(ことに)気づいた……写真を目的にしないときはカメラを持参してはいけない」と自らに禁じ、以後、目的的にものごとを観ることに心を傾けたという。まだ、デジカメが流行りはじめる前の話である。
「写真を撮ることに夢中になり……」という話には、私もちょっと思うところがある。私は山歩きを主として日々を過ごしてきたが、定年後はただ山を歩くだけではなく。鳥を観たり植物を観察したりすることをすすめられ、師匠を得て、教えてもらってきた。鳥観の先達たちは双眼鏡をつかう。スコープも使う。私は師匠から譲り受けた双眼鏡を持ち歩き、ときどき師匠のスコープを覗きこませてもらって、鳥観を愉しんではいる。そのとき気付いたのだが、8倍の双眼鏡、30倍のスコープは、見事に鳥をクローズアップして、眼前においてくれる。はるか50m、100m先の鳥も、間近に引き寄せる。ほほお、あんなに顔周りが多彩な色のグラデーションに彩られているのかと、見なれたシジュウカラに感動したり、ヤマガラに驚いたりする。光の当たり具合によって変幻する色合いにも目を瞠る。双眼鏡やスコープでみる対象は、「世界」をみているというよりも、対象だけを「世界」から切りとって「名づける」分節化をしているのだ。
「世界」を「地」とすれば「鳥」という「図」を取り出している。いつであったか旧知の友人から「鳥や草花を観て名前を知るって、だから何なの?」と聞かれたことがある。「なんだろう、親しくなるってことかな」とあいまいに答えて、そのまま棚上げしたことがあった。だが「親しくなる」ってどういうこと? という疑問はずうっとつきまとってきた。いまはこう言える。「親しくなる」というのは、「世界」が我が身の一角を占めること。つまり「鳥」や「草花」を分節化して名前を識るってことは、それまで無明混沌の海に没していた世界の一部が我が身の輪郭のひとつを占めるように意識されることだ、と。「じぶん」はいまだに、生まれ落ちた子どもの延長上にあって、混沌の海から「我が身」を引きずり出しつつある。引き摺りだした分だけが「私」として意識される。無明の混沌のすべてが「わが世界」であったものが、分節化するごとにその分だけ「じぶん」が「世界」から切り離され、心細くなる。親から、近親者から、ご近所から、友人から、社会からと、緩やかに分節化は広がり、それはますます「世界」から「孤立するじぶん」を照らし出す。「ひとりで生まれ、一人で生き、一人で死んでいく(わたし)」と観念する。
それに耐えきれなくなるところで「わが身」の身体に刻まれた「安定装置」が起動し、連れ合いを求めたと、今ならば言える。「安定装置」は私の内的な衝動だ。連れ合いが同じように感じていたかどうかは、いまとなってはわからない。ただ、互いの生育歴中の文化(的な差異)がせめぎ合い、あるいは(互いの)遠慮や思い遣りや加害意識が補完的に作用する。そのようにして、文化の差異を埋め合わせ、あるいはそれが主題ではないと棚上げし、そのうち忘れて(差異など)どうでもよくなり、生活習慣としての同一化に馴染み、ふと気づくと半世紀を過ごして互いに「元気で留守がいい」と感じるようなパターンができあがっている。
「親しくなる」というのは、無明混沌の海に没していた「世界」が引きずり出されて「わが身」に一体化する鳥羽口に立つこと。鳥観や植物観察について、いつまでも門前の小僧である私は、ひょっとすると、簡単に一体化することを拒んでいるのかもしれない。あるいは、もうこの歳になって、いまさらそこまで「世界」を引き寄せたくないと、世界の初めから刻まれしバカの壁がうめき声をあげているのかもしれない。あるいはまた、師匠と同じ領域を生きることをしてはいけないと、なぜか制動をかけているのかもしれない。そこにもまた、じぶんの自然観が働いていると感じてはいるのである。
話を元に戻そう。nkjさんは、2005年にデジカメを手にする。そうして「なぜ、風景、鉄道、人物などではなく花が好きなのか」と、対象の選好について自問し、母親の影響を取り出す。これも「じぶん」の輪郭を描き出す鳥羽口に立っていることを示している。彼はその写真処理をパソコンで行う。そのうち、母親のフィルム写真をパソコンに取り込んで保存することを行うのだが、その気質の方にむしろ、彼の生き方が表れていると私には思えた。
花に魅かれた彼は、イヌタデの写真を示して「少し写真が小さいのでわかりにくいと思うが……ふだん自分の眼で見たものと違うように見える」と記す。ここに「窓を通じて世界をみている」感触が垣間見える。さらに彼は「花の写真でさえこう感じるのだから、人物を専門に撮っている人はすごく感じているのではないだろうか」と話しを広げる。面白い。そのように人は、「世界」の感触へ触手を伸ばし、じつはじぶんの関心事を予感している。彼は「カメラを提げて子どもや人物に目を向けていると誤解されるから、できるだけそういう場に身を置かない」と付け加えたが、私はむしろ彼は、「誤解」されるほど人物に関心を向け、カメラを向け、ときにはその対象人物の、意図して身につけているものを引きはがして見て取るような鋭い視線を送りたいのではないか。そうなると面白いのに、と思った。そこを突破しないと、「一眼レフで撮影した方が、画像に深みがあると感じる」という彼のセンスを、解き放つことはできないのではないか。芸術へ向かう衝動は、抑えることを排撃する。世の規矩準縄を踏み外すことなく70年も生きて後に到達した地平であれば、たとえそれが世の規範を逸脱していようとも、冒すに値する冒険だと私は思う。
古希をすぎてみれば、もう何も恐れることはない。不良老年と謗られようと、誤解されて逮捕される憂き目をみようと、それはそれで、これまで経験したことのないような体験を味わえるかもしれない。ある窓から「世界」を覗く(カメラ)というのは、それほどにきわどいスリリングな「目撃録」だと私は思う。「写真は私の眼ではとらえきれないものを映し出す」と、写された画像に思いもよらない発見をすることがあると記している。カメラというメディアをもって世界を見て取ろうとする芸術への衝動を、ぜひとも開花させてもらいたいと思った。
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