2017年6月28日水曜日
変わった日本に変わった規範を――規範はどうかたちづくられるか(8)
東洋経済オンラインを読んでいたら、《外国人が日本に来て感じる「美徳と違和感」》という記事が目に留まった。
《先日、知り合いのギリシャ人6人を連れて、東京観光をしました。日本が初めての彼らは、電車の中がとても静かだったことに驚いていました。ギリシャでは、電車に乗っているときでも電話で話すのが当たり前です。》
と、ギリシャの人びとの振る舞い方と日本のそれとを比較して綴っている。その他にも、電車の停車駅や時刻の車内案内が丁寧に繰り返される日本の交通といつ来るのかわからないギリシャの鉄道、時間を守ろうと緊張する日本人、家族よりも公的仕事を優先する日本人、母親の料理の方がおいしいと新妻に告げるギリシャの亭主、踏切で電車にぶつかった人にお前が注意していないからだと非難する(踏切遮断機を降ろし忘れた)ギリシャの踏切手と事例をあげ、表題のような記事になった。
《ギリシャ人としては、日本のように規律を大切にすることや他の人のことを思いやることなど、見習わなければならないことはたくさんあります……(だが)……きちんとしているけど、息苦しいときもある》
と締めくくる。私は、2年ほど前にこのブログに書いたことを思い出した。生物学者の福岡伸一に、「嘘をつかない、盗みをしない、他人に迷惑をかけない」という日本人の子どもの教育方針について「意見」を聞かれた文化人類学者のジャレド・ダイヤモンドはこう答えていた。
《……「他人に迷惑をかけない」という(社会規範がある)のは、私も初めて聞きました。おそらくアメリカ人が子どもに教えたいことの、トップ25にも入らないでしょう。ほとんどの西洋人にとって、他人に迷惑をかけるかどうかはどうでもいいことですから。》
つまり、欧米社会の人びとは(自分が存在する以上)「他人に迷惑をかける」のは当然と考えている。「迷惑をかけてもいい」と言っているわけではないかもしれないが、それを「迷惑」と受け取るのは、そちらに「問題」があると思っているように見える。「迷惑」と文句をつけるよりも、他人と共に暮らすというのはそういうことだよ、とでもいうように。保育園の子どもの声がうるさいと訴える日本の住宅街の騒ぎも思い出す。欧米では、イヤなら自ら「共に暮らすことをやめな」というかもしれない。ヨーロッパを旅しているとよく耳に(目に)するが、「エクスキューズ・ミー」とか「パルドン」と言いながら脇をすり抜けていく。つまり、(私の通行が)「迷惑」をかけるから「ごめんよ」と声をあげ、コミュニケーションをとって断る。忖度したり気遣ったりするというのは、その場を構成する人々に社会規範が共有されていて、でも、それに対応できない人もいようから(その人が、迷惑をかけないで済むように)心遣いをするという「文化」が日本に広く通用している、ということだ。
2年前のブログは、グローバル化の時代に日本の内向けの規範や美徳では通用しないことが多かろうと考えるのであれば、異文化の社会規範や道徳と決定的に異なる規範や振る舞い方を私たちがもっていることを意識して「寛容」の幅を広げていくしかないのではないか、と記した。それでも、経済関係における商取引では「契約」による「公正な」取引が前提にされているから、異文化とは言え、平和的に(金銭を介在させて)交通をはかれば、アメリカン・スタンダードかそうでないかの違いはあろうが、それほどの狂いはない。だが最近のグローバル化は、国民国家の政治や文化を介在させないではおかないから、経済的な取引だけではなく、まさに文化的な衝突が露わになる。そこで気づかいをし、あたかも共通了解があるかのように前提してやりとりをすると、とんでもない「迷惑」を被ることになる。
つまり目下進行しているグローバル化というのは、外来の文化との衝突というよりも、共有する文化的基盤を失くしたもの同士の小競り合いと考えた方がいいという指摘であった。相変わらず、島国の(日本語を話す人々)という楽観に依拠するのではなく、日本語を話していても「迷惑」などは意に介さない(介せない)人々がたくさん混在していると考えた、社会構成とそういう社会に生きていく適応法とを「道徳教育」として盛り込むべきなのではないか。相変わらず「日本人の美徳」とか「日本の素晴らしいおもてなし」とか「伝統的文化」などと(ほぼ同じ社会規範を吸って生育した人たちばかりがいた)古い時代の社会規範を再興しようというのでは、まちがいなく適応不全になる若い人たちが多数発生することになる。古い時代の規範では「(共同社会への)依存性」もまた、無意識に刷り込まれ、助長されるからだ。
新しい時代には新しい社会規範を。そう言いたくなるほどに、日本は変わってしまったと痛感する。
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