2017年6月2日金曜日

「江戸しぐさ」は現代の都市伝説――なぜ人は物語りを信じるか


 モンゴルへの行き来に読んだ本のことに触れる。原田実『江戸しぐさの正体――教育をむしばむ偽りの伝統』(星海社、2014年)。なんでこんな本をもってきたろうと思いながら、機内で開いた。たぶん、私の関わるSeminarで「江戸・東京」を取り上げたときに、タイトルが気になって図書館に予約したものが、時期を外して届いたからであろう。


 この本によると、「江戸しぐさ」ということが流行りらしい。公共広告機構JAROのコマーシャルで使ったり、「NPO法人江戸しぐさ」が活動していたり、ついには道徳の教科書に採用されたりしているという。原田実はその「江戸しぐさ」の虚実を、一つひとつ解きほぐしていき、大正末から昭和初期に生まれた(生年に違いがある)とされる一人の人物に行き着く。「江戸しぐさ」はその人物の(変貌する時代に対する)反骨の感懐の断片であり、しかも本人は口承以外は門外不出とする矜持をもっていたそうである。それを聞き知り受け取った何人かの人たちが、文章にし、書籍にして大々的に広めていったと、子細に追跡してあきらかにする。

 それがちょうど、1990年代の半ばからつづいていた「失われた二十年」の経済環境下に、藁にもすがりたい経営者の気分にもマッチしたのであろう。NPO法人が起ちあがりJAROの広告に採用され、さらにそれが道徳教育推進の保守政治に組み込まれて、原田が記すような「江戸しぐさ」ブームにいたったと考えられる。つまり、「江戸しぐさ」は現代の都市伝説だと断定する。

 原田が本書を書き記したのは、この現代の都市伝説が「教科書」に採用されているからと本書の副題が示す。たしかにその通りだ。今の政府のやり方をみていると、なんでも利用できるものは利用する、根拠も正当性も正統性も、認知・承認するのは「政権」なのだといったあざとさがある。だから、そうだねえ、やりかねないねと頷く。と同時に、なぜ人は、そのような物語を信じるのだろうかと、私の思いは移る。原田はそこには踏み込んでいない。

 つまり問題は、「江戸しぐさ」の史的真実性や科学的真理性にあるのではない。これを好感する人々にとって「江戸しぐさ」の表現していることごとは、「まことであってほしい」期待感に充たされている。「あらまほしきしぐさ」は、「失われたしぐさ」である。それがなぜ失われたかと考えると、あきらかに近代化への歩みのせいだと思うと、わかりやすい。だがもう少し踏み込んで考えると「失われた」わけではないと思い当たる。そもそもそれが存在したということ自体が夢ではなかったか。日本の近代化のベースが江戸期の商取引などに見出されると経済学はいう。その論説の背景には、ヨーロッパでは「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」が近代の基礎になったと説く。つまりヨーロッパと同様のベースが日本にもあったと論述する(資本主義への近代化は西欧からの輸入品ではなく日本独自の正統性を持つ)意味も持っている。

 「江戸しぐさ」という都市伝説は、「失われた二十年」やそれにまつわる今の時代状況が、欧米由来の、あるいはグローバリズムというアメリカンスタンダードに振り回された結果もたらされたものだという、自尊の根拠の揺らぎを表している。欧米によるものではなく、私たち自身のふるさと「江戸」には、しっかりした土台があったという話は、私たちの自尊をくすぐる。真実性や真理性はともかく、それは「いいね」と反応する。都市伝説はそのようにして生まれると、よくわかる。つまり、都市伝説は、私たち自身の内心の揺らぎに存立の根拠をもっているのである。

 教育現場に取り込まれるひとつの契機をつくっているのが、TOSSという教育技術化集団によるとも、原田は書いている。向山洋一という名を聞いて、教育法則化運動を思い出した。むかしこのグループの評価をめぐって教育研究グループでやりとりしたことがあった。「法則化」というのは、いろんな児童生徒を抱えて、どうやったらいいのかと悩む学校現場の教師たちにとって、とても魅力的に思えた。誰がやっても、児童生徒の能力が発現されて「できる」ようになるというマニュアルは、たいへんな広がりをみせていた。だが私たちは、これを高く評価するのをためらった。なぜか。想定する人間のイメージが画一化されているように「感じた」からであった。近代の学校教育というのは、「人間」に画一化するものではあるが、人間を画一的にみるものではない。この矛盾を抱えて現場に臨むのが教師だと思っていたから、マニュアル的な「法則化」に、馴染めないものを感じたのである。

 だから、道徳教育の教科書に都市伝説が載ったことは、学術的な精華を誇る文部行政の問題としては大問題であろうが、学校現場の教師にとっては、民話やジャーナルなトピックと同じである。掲載されていることが問題というよりも、それをどのように「素材」として教室で読みこなせるかが、教師にとっての問題なのだ。とすると、まさに都市伝説を必要とする人びとの心情に思いを致して、子どもたちに解き明かして見せる力が必要ではないか。もしそれを外して、原田の言うように「真理や真実に違う」と述べても、トランプに勝てなかったクリントンの憂き目を見ることになろう。子どもたちの道徳にはかすりもしない。

 ここは道徳教育を論じる場面ではないので、これ以上踏み込まないが、教師自身が己を対象化して、世に起こるコトゴトをみる視線を手に入れること、これしかないのではないか。逆に言うと、私は何を真実・真理とみているか。それをつかんでこそ、人に語れる何かの足場を得たということができるように思った。

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