2017年7月30日日曜日

最悪を想定する分配感覚の共通性――規範はどうかたちづくられるか(9)


 6/28の「規範はどうかたちづくられるか(8)」以来、すっかり無沙汰をしてしまいました。じつは金井良太『脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか』(岩波書店、2013年)のように脳科学と連結させてモラルや理性を論じる本が、今年に入ってから続々と出版されています。それだけ、脳科学のMRIなど、生体チェックが容易にできるようになって、その分野の進展が目覚ましいのだろうと推測しています。とりあえず、亀田達也『モラルの起源――実験社会科学からの問い』(岩波新書、2017年)を読んで、金井たちのところで紹介していなかったことがらに触れておきます。

方法的な視線の違い


 山折哲雄『これを語りて日本人を戦慄せしめよ――柳田国男が言いたかったこと』(新潮選書、2014年)に、柳田と折口信夫と南方熊楠を対照させて、その三者の方法的な視線の違いを指摘しているところがあった。柳田は「普遍化」を目指し、折口は「始原化」を志向しているのに対して熊楠は「明確な方法的意識があったのだろうか」と疑問を呈し、「彼のどの論文にもみられる狂気のごとき羅列主義」から浮かび上がるのは「カオス還元のイメージ」と掬い上げている。

2017年7月29日土曜日

また、私の夏休み


 激しく雨が降る。すぐに止む。暑さがぶり返す。山から帰ってくると、途端に町の暑さが気持ちを大きく占める。でもやっと、私の夏休みがはじめる。私の、単独行の山プランをたてる。今年は薬師岳に行こうと考えている。というのも、ぼちぼち五日間もの山歩きをつづけることがむつかしくなっているのではないかと心配しているからだ。71歳になる年であったか、飯豊山に行った三泊四日は、その後の大きな自信になった。一日10時間近く、20kgの荷を背負って歩いた。だがこのところ、6,7時間の行程を歩くと、翌日はぐったりしていることが多くなった。やはり後期高齢者になるというのは、如実に力の衰えとして現れるってことか。そう思うようになった。

2017年7月28日金曜日

岩稜とお花畑の薬師岳と早池峰山(2)絶好の山日和


 さて26日。朝食は7時。湯豆腐などもあって、けっこう盛りだくさん。昨夜のキャンプ食のせいもあって、ゆっくり、たっぷりといただいた。それでも7時45分発。昨日のコンビニによってお昼を調達。このコンビニ、駐車場は、トラックも含めていっぱいであった。

 昨日の登山口へ向かう。このとき、早池峰神社に近づくにつれて東へ向かっているのだとわかる。陽ざしが前から差して来て、狭い林道の先がまばゆくて見通せない。カーブに差し掛かると、速度を落とし手をかざして見極めなければならなかった。8時半前に登山口に着く。昨日と違って、車がいっぱい止まっている。岩手ナンバー、盛岡ナンバーが多いが、横浜ナンバーもあった。8時35分、歩きはじめる。

正しさの修正ができないポピュリスト


 ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』(岩波書店、2017年)を読む。ポピュリズムと民主主義の差異について力を入れて検討しているところが面白かった。ポピュリズムは代表制民主主義の場面においてのみ成立する概念と前提しているから、民主主義と紛らわしくなる。あるいは、どこかで民主主義的な制度の下に成立した政権が、いつのまにかポピュリズムと称されるように変質していることも考えられる。だからミュラーは次のように、不可能性の上に可能性を追求するような提示をする。

2017年7月27日木曜日

岩稜とお花畑の薬師岳と早池峰山


 花の百名山「薬師岳と早池峰山」に行ってきた。宮城や福島地方に大雨洪水警報が出ていたのに、週間予報では「降水確率80%」であった25日の岩手・早池峰方面は「曇り晴、降水確率10%」とよくなった。前線が下に下がってそれまで大雨であった岩手秋田地方が好天に変わった。

 新花巻駅に下車しレンタカー2台に分乗して、一路「早池峰神社」へ。そこから5kmほど先の登山口に向かう。naviに頼りっぱなしだから、どちらへ向かって走っているのかもわからない。青々とした水田が広がる。やがて山間の道になり、早池峰ダムの脇を通って民家もまばらに点在する集落をへて、細い一本道に入り込む。ところどころに待避所を設えた登山口への道は、土日には一般者の通行が禁じられ、集落手前でシャトルバス乗り換える。だが平日とあって河原の坊駐車場まで乗り入れる。10時半前に着く。ビジターセンターがあり、トイレがある。ほんの数台の車しか止まっていない。標高は1050m。

2017年7月24日月曜日

混沌に持ち込めってこと? 第27回seminar報告(1)


 アロマテラピーが今回Seminarのお題。何でもテラピーと言えば「癒す効果」と考えるが、それが疲れをとり、ストレスを解消し、安眠に効果をもたらし、認知症の進行を防ぐとなると、ただ単に「癒す」というだけでなく、「健康にいい」と受け止めた。だからお題を「健康と香り」と大きく打ったのだが、どうも「アロマテラピー」というのは、ちょっそそこからずれるようにみえる。

2017年7月22日土曜日

藪の中に持ち込めるか庶民の「常識」


 加計学園の獣医師学部の設置をめぐって、決定の2カ月も前に山本担当大臣が「加計の負担分も交えて獣医師会に知らせていた」ことがわかった。山本担当大臣は「獣医師会が自分の思惑で作成したもの、私は知らない」とほっかぶりをしている。

 だが私ら庶民の常識で言うと、どうなるか。政治家というのは自分の立場を守るために平気でウソをつく人種とみなしている。だが、獣医師というのが平気でうそをつく人種とみなす根拠は、あまり持っていない。ということは、山本大臣がどう言葉を並べようと、藪の中に持ち込もうとしていると読むのが、庶民感覚というもの。

2017年7月21日金曜日

地理院地図のルートが廃道になる


 冬のコースにどうだろうと、古峯神社から地蔵岳を歩いた。この地蔵岳には、すでに二度登っている。いずれも日光の細尾峠から。そのときは、稜線の末端という感じ、高くなっているほどでもない。そもそも山頂という風格がない、と思っていた。ところが古峯神社に近づいて地蔵岳の銘々由来に気づいた。神社の後ろに三角錐の山体を屹立させている。見事に守護神としての姿を見せる。な~るほど。

2017年7月19日水曜日

供養という自己認識のかたち


 「ささらほうさら」7月の話を締めくくりたい。自身の身を置く文化的なギャップに鬱屈を感じていたmsokさんは、『ハチロー伝』を書くことで、わが身の祖型である父親の鬱乎たる思いを晴らしたというのではない。じつはハチロー伝の後半の半分は、歳をとったハチローさんが事業でもそれなりの位置を占め、商工会や町内会でも名士の立場に置かれるようになる。受動的で引っ込み思案のハチローさん自身が変わっていくさまが描かれている。「比翼連理ではないが……」と考えられていた父母の関係も、信仰を介在させた社会的活動が功を奏して、ハチローさんの身の置き所が定まっていく様子が浮かび上がっている。msokさんは、そうして系譜をたどり、養子として十二代目となったハチローさんを中興の祖ではないかと評価する。大団円ではないか。

2017年7月18日火曜日

身の刻んだ文化と飛翔するじぶんの大いなるギャップ


 「ささらほうさら」の7月例会の話し「書き言葉というカニの藻屑」(7/14)につづける。講師を務めたmsokさんの「お題」は、終わってみれば、彼の自画像という三題噺であった。(1)時代小説の進展具合、(2)「まあ、なりゆきです」ということばの借用、(3)亡き父に捧げた『ハチロー伝』のこと。三題噺という構成が、クラシックに造詣の深い彼の「世界構成」にふさわしいのかどうか、私にはちょっとわからない。彼ならば、起承転結の四部構成がしっくりくるというのではないかと思うのだが、人は変わる。彼だって、三題噺の方がしっくりくる語り方を、この際はしたかったのかもしれないと、考えるともなく思っている。

2017年7月17日月曜日

青天の霹靂


 昨日夜7時ころ、TVのテロップに「埼玉 竜巻注意報」と出て、おっ、珍しい、と思った。そのすぐ後、みていた衛星放送の画面が消えた。うん? と思うのとほぼ同時に、ごろごろごろと雷が鳴り響く。TVを地上波に切り替える。今度はテロップに「埼玉 大雨洪水注意報」と出ている。いよいよ埼玉まで巻き込みはじめたかこの異常気象は、と胸中に浮かぶ。半世紀以上も前になるが、この地に棲みついたとき「いいとこだよ、埼玉は。何より大きな災害がない」と地元の人が歓迎してくれたのを、思い出した。今年の大雨も、太平洋寄りとか関東地方の山沿いを通り過ぎて、埼玉はいつも忘れられてきた。雨も落ちないバカ暑い日が続いていた。

2017年7月16日日曜日

すっかり埒外のヒト


 塚越健司「情報社会とハクティビズム」を読むと、もう私などは、すっかり埒外の人になっていると、わかる。ITを含め、世の中はものすごい変わり方をしているんだと、感嘆しながら読みすすめた。東浩紀が「動物化するポストモダン」で環境管理型権力に移行していると語り、アーキテクチャーを論題にしたころまではおおよそイメージがつかめていた、と思っていた。それからまだ7年くらいしか経たないのに、現実社会の進展には目を瞠る以上のものがある。もっとも、レイ・カーツワイルの「シンギュラリティ論」を聞けば、(世界は指数関数的に変化するから)7年は十分すぎる時間ではある。

2017年7月15日土曜日

死してなお、「残像」を残して国家を脅かす


 今年前半の政治の話題はほとんどモリとカケ。そして「忖度」という流行語大賞候補も飛び出してきた。私たちが「公平」とか「公正」というとき、「身びいき」を否定する響きがある。身びいきというのは、言うまでもなく、自分の身内や友だちなど、自分と関係のある人を優遇することを言う。むろん日本ばかりではない。ネポティズムという政治学用語にもなっている。一般にネポティズムは前近代的な、遅れた社会に残された旧時代の遺制という響きがある。それが「忖度」というかたちで残されていることに、初めて気づいたかのようにマス・メディアで話題になるのだから、政治家たちもメディアの仕切り人たちもお惚けもいいところだ。

2017年7月14日金曜日

書き言葉というカニの藻屑


 「ささらほうさら」の今月の講師はmskさん。これといった「お題」を打たない。まず、《自分で自分にインタビュー》という「資料」を配る。読めばいいというのでは味気ないからでしょうか。若いwさんをインタビュアーに仕立て、mskさんが応えるというふうに、「資料」を読む。なぜそんなまどろっこしいやり方をとるのか。(たぶん)我がことを口にするのが、恥ずかしいんでしょう。でも、わがことに触れずに何かを語るというほど、私たちは若くない。何をインタビューしているか。

2017年7月12日水曜日

自然起因


 ここ三週間ほどの間に二度、パソコンのインターネット通信が途絶えた。その都度、経験則的にだが、モデムとルーターの電源をOFF西、時間が経ってからもう一度電源を入れるというふうにして、修復を試みた。一度目は、他にも用があって私がパソコンに触らなかったので一晩明けて繋いだら、うまくアクセスできた。経験則がいていると思った。二度目は、それでもうまくいかなかった。何気なく電話器をとると、ツーという開始音がしない。NTTのカスタマーセンターに電話をして、♯と指示する番号を押し、やっと人につながると「本人確認」とかを聞かれ、「機器の故障のようだ」と判断されて別の電話番号を教えられ、そちらにまた、電話をする。同じように、シャープと番号を押し、やはり人とつながると「本人確認」を繰り返し聞かれ、やっと本題に入った。

2017年7月11日火曜日

「時の密度」が薄くなるということ


 歳をとると時が早く過ぎると思う。私は一年の長さが年齢分の一で過ぎ去ると考えてきた。ふとある時、それを逆の方、つまり暮らしにおける「時の密度」として考えると、私たち年寄りは年の分だけ「時の密度」が薄くなっていることでもある。では、歳をとるにつれて「時の密度」が薄くなるとはどういうことだろうか。

2017年7月10日月曜日

持続可能な岩盤と価値観の転換


 古守宿一作が暮らしの岩盤であると、AIによるシンギュラリティとの対比で記した(7/9)。もう一歩踏み込んで岩盤の持続可能性について考えてみる。そこには、大きな価値観の転換が前提になっている。この宿の料金が一泊15000円だと紹介した。通常なら、大人の旅の宿泊料金としてはまあまあの価格帯と言ってよかろう。むろんホテルや旅館の食膳には、お腹いっぱいになる凝った料理が並ぶ。バイキング式であっても、なかなか手の込んだ調理が施されていると感じられる品々が並んでいて、ついつい食べ過ぎてしまうほどだ。

2017年7月9日日曜日

人の暮らしの岩盤とシンギュラリティ


 2045年までにシンギュラリティに達すると、AIの専門家たちが話題を振りまいている。シンギュラリティというのはブラックホールに突入したのちの世界という意味で、何が待っているかわからない歴史的大転換を意味するという。むろん地球がブラックホールに突入するというのではなく、AIのもたらす時代が人類史の大転換をもたらすというのである。そのなかの一人、レイ・カーツワイルは、エネルギーが無尽蔵になる、人の身体に予防接種をするように超小型化した安価なAIを注入して病気の予防や治療を行う、のちには脳の活動の補助装置AIを輸血するように挿入して、個々人の知的な蓄積情報を人体外部のクラウドに保存するなど、おおよそ人間そのものがAIと一体化する時代がやってくる、と予測している。

2017年7月6日木曜日

「楽勝」のニッコウキスゲが身に堪える


 台風一過、6時半とゆっくり家を出て、日光・霧降高原の山に登った。ここには2011年の7月12日に、一組案内して、赤薙山と丸山に登っている。そのときの登山口(今はキスゲ平と名づけられている)は、工事中でブルドーザーが入っていた。それでもニッコウキスゲは咲き乱れ、壮観だと書き記している。

 行ってみて驚いた。すっかり整備が終わり、広い駐車場も整備され、登山口にはインフォメーションセンターも建っている。第一駐車場には、すでに、二十台余の車が止まっている。斜面全体が広く鹿柵に囲われ、一面にニッコウキスゲが花開いている。まっすぐ小丸山の方へ上る階段。ところどころに横にせり出す見晴らし台があり、あるいは、お花畑を回遊する散歩道がつくられ、人の姿もみえる。階段は「100段/1445段」と里程標が記され、標高差270mほどを上る。すっかり園地として整備され、たくさんの観光客を呼んでいるようだ。

2017年7月4日火曜日

台風がやってくる


 「明日(7/5)の山は中止」と連絡がきた。台風がやってきて、歩く時の天候が読めないからという。先月は「延期」した。今月は「中止」。案内を先導するCL(チーフリーダー)の判断に任せているからそれでいいのだが、ちょっとリスキーになるかもしれないが、たぶん私なら実施すると思った。というのも、台風は明日の未明に関東地方を通過する。朝6時くらいまで雨が降るだろうと昨日夜の「予報」はいう。少し通過が遅くなっても、登りはじめる9時過ぎには雨は上がる。台風一過の好天になるのではないかと私は読んでいる。でもまあ、CLが判断したことだから仕方がない。

2017年7月2日日曜日

フォルモサ――先住民の制圧戦


 昨日(7/1)の東洋経済オンラインを見ていて、「フォルモサです」ということばに戸惑った。えっ、なんだっけ、聞き覚えはあるが……。手元の百科事典を引いた。こう書いてあった。

《アルゼンチン北部、フォルモサ州の州都。ブエノスアイレス北方950km、パラグアイ川沿岸に位置する。人口20万人余(2001年)。周辺地域のたばこ、サトウキビ、綿花、ゲブクチェ、タンニンなど農牧林業品の集散地で、先住民人口が多い。19世紀後半まで先住民制圧戦が展開され、その後積極的な入植政策が実施されたが、開発は遅れている。》

2017年7月1日土曜日

詫びの仕方


 稲田防衛相が選挙の応援演説で「防衛省、自衛隊、防衛大臣としてよろしくお願いします」とやって、軍事組織の政治的中立性をないがしろにしてしまった。指摘を受けて彼女は前言を撤回したが、それで済むことなのだろうか。現職の防衛大臣である。昨日の記者会見で彼女は「誤解を招きかねない発言であった」と繰り返し弁明をした。だが、「誤解を招きかねない発言」ではない。「誤解の余地のない発言」であった。彼女は弁護士の資格も持つというから、法律の専門家である。それが単に「発言撤回」と「謝罪」で「暴力装置の政治的中立性」は保てると考えられるか。これは、「軽率」とか「うっかり」とか「失言」というレベルのことではない。国家の暴力装置を担う担当大臣として踏み越えてはならない根幹を外している。これを官房長官も「当人が説明することではあるが、辞任や罷免に相当することではない」と表明している。ということは、彼女の「発言」を根幹においては容認したということになろう。国家体制の根幹にかかわる明らかに一線を超えた言説を政府首脳が擁護していることであり、単なる政局の問題ではない。