2017年7月24日月曜日
混沌に持ち込めってこと? 第27回seminar報告(1)
アロマテラピーが今回Seminarのお題。何でもテラピーと言えば「癒す効果」と考えるが、それが疲れをとり、ストレスを解消し、安眠に効果をもたらし、認知症の進行を防ぐとなると、ただ単に「癒す」というだけでなく、「健康にいい」と受け止めた。だからお題を「健康と香り」と大きく打ったのだが、どうも「アロマテラピー」というのは、ちょっそそこからずれるようにみえる。
Seminarの案内は次のように前振りをしている。
*****「第27回aAg Seminarご案内」
(前略)今月の講師は長く薬学の開発研究に携わってきたstさん(今も現職でそれに携わっている)。
考えてみれば、人間の感官の中でも、舌と鼻は一番研究開発が遅れた分野のようです。舌がバカになるとか鼻がバカになるとはよく言いますが、目がバカになるとか耳がバカになるとは言いません。なぜかと言えば、目や耳の感官は、数値化することが早くからなされて、見えないとか聞こえないとか、近視とか難聴と呼ばれて差別化されて取り出されていました。放っておかれた舌や鼻――つまり味や香り、味覚や嗅覚は「うまい/まずい」「匂う/匂わない」という大雑把なくくりで放り出されていたわけです。いまは、「匂い」を数値化できるのでしょうか。
「消臭」と銘打った薬剤がずいぶん出回っています。そういえば世の中は、ずいぶん清潔になり、汚いものや臭いものを排除してきました。私などは生まれも育ちも雑菌世代、戦後のとんでもない環境のなかで、雑菌まみれになっておい育ってきたのですが、そのせいで、結構病気にも強く、食中毒にも、そう簡単にはならないように思えます。世の中が清く正しく美しくなってきたせいで、「香り」が浮かび上がってきたのでしょうか。
そこへ現在の研究の最先端のひとつ、「アロマテラピー」を健康に絡めて紹介してくれるというのが、今回のseminarです。以下のようなメールが(Seminar開催の前に)届いています。
《アロマと言えば ごく最近と思われますが 日本古来の香 というのもあり 匂いは密接に生活と関係あったのでしょう。/ただ アロマと呼ばれるものと香とでは、はっきりと違いはありますが。/匂い。英語で辞書を引くと、perfume、scent、fragrant、aroma、odour などあり、匂いには結構敏感だったのかと。匂いの感じ方は数値化しにくいと述べられていますが、感覚的にはむしろ敏感であろうかとおもいました。/1キロのバラの精油を作るために5トンのバラの花を要すること、精油を取るための樹木の伐採、成長の遅い木々はこのために消滅の危機にさらされていること。bright side だけを見ることをせず、未来を見据えて何事も謙虚に向かい合いたいですね。 2017/7/10 mdr》
*****
stさんは55枚のプレゼン用のシートを作成して用意していました。だが、プロジェクターの接続回線のアタッチメントが違っていたりして、彼女の用意したパソコンとつなぐことができず、結局それをプリントしたものを使って話をすすめることになりました。でもプロジェクターぬきで十分、意を通じることはできたように思えます。私たちはアナログ世代なんだと、つくづく(そして反省もなしに)安堵しつつ思ったものでした。
55枚のシートは、大きく分けると四種類。
(1)香りがどう取り出され、何処にどう作用して、どのよう効果を及ぼすか。
(2)香りの種類を七分類し、それぞれが何から取り出され、どのような成分によって構成され、どんなことに用いられているか。
(3)香りの効用が、摂食量に及ぼす影響、体温に及ぼす効果、脳波のα波への影響など、グラフや画像。
(4)香道アロマテラピーの比較として、「お香」の種類、製法(抽出法)、リラクゼーション効果、ストレスホルモンの変化、鉄の還元力の変化などの検査結果。
(2)~(4)はいずれも、どんどん専門領域に入るから、グラフの折れ線具合とか、高低比を感じるくらいしかわからない。専門家というのは、何だかむつかしいことにけんめいで、ほとんど夢の中なのかな。みているシートとシートの関連性にはそれなりの密接な関係性があるとわかるが、なぜそこに限定するのかが「世界」との関係でみてとれない。この専門家が(彼女の世界とどうかかわって)どうしてそこに囚われているのか。そのスタートのところが(私の)腑に落ちていないから、何だか(話から)取り残されたような気がしてくる。せっかく力を入れて話をしてくれているのに、ごめんなさい、だ。
ふと正気に返るようにして、思う。「におい」って、「匂い」と「臭い」と二通りに表記すると思っていた。ところが「匂い/にほひ」は「いい香り」のことだ。「臭い」は「臭い/くさい」となって、いやなにおいのことを言うと、大野晋が「古典基礎語辞典」で解説している。stさんのシートの「香りの種類」が七分類しているのに対して、「くさいにおいはどこに入るの?」と聞いて「いや、いいにおいだけを分類しているのだが」と困ったような顔をして答えていたのは、まったく私のとんちんかんのせいでした。これも、ごめんなさい、だ。
つまり、「におい」というとき、「いい/わるい」がまず別れるが、それ以上に較べようがない時代が長く続いたといえようか。味もそうだ。「うまい/まずい」がまず別れ、さらにどれほどうまいかが分節化されるのには、ずいぶんと時間がかかったということかもしれない。あるいはこうも言えようか。「におい」にはすぐ慣れる。鼻がバカになると、私たちはいう。味覚もまた、すぐ馴染む。まずいものを食べ続けていると、まずくても「まずい」と思わなくなる。うまいものを食べ続けているとうまいものも「うまい」と思わなくなるのだろうか。私には、これがわからない。食えれば十分、「うまい/まずい」はいうものではないと、誰にそう言われたわけでもないが、そう思って大きくなってきた。これには自信があるから、(私は)貧乏に強いと威張っている。舌がバカになると、これも言う。でも鼻ほど単純ではない。味覚というのは、「あまい/からい/にがい/すっぱい」という四味を基本にしているといわれる。ここの「からい」というのは塩味のことだ。それに「から(辛)い/しぶい」や発酵食品の味や「ねばり/とろみ」といった食感も「あじわい」の末端に並ぶ。となると、においも味わいの一部に含まれる。今回Seminarのお題からいえば、逆も言えるか。つまり、味覚も匂いの端末とどこかで連接している、と。
となると、話しは変わるが、聴覚や視覚は、馴染む、慣れる、即ちバカになるということがないのだろうか。こちらだって、日ごろ見なれているものには違和感を覚えないってことがある。聞きなれていれば、パチンコ屋の騒音だってうるさいと思わなくなる。耳や眼もバカになることがあるに違いないのだが、そうは言わない。ということはたぶん、音や眼でみるものは、複雑に分節化されて表現されてきたにちがいない。つまり分節化というのは、科学的な探究の進展度合いではない。表現することばの数の多寡が分節化の度合いを示している。ことばが多いというのは、バカではないということか。ここまでくると、なるほどと、まず腑に落ちる。
でもそう思ってみると、私たちはずいぶんと自分の感官に疎い。ヒトが目と耳とことばを発声するという意味での口を中心にして人生を渡ってきた。逆に言うと、目や耳が不自由であったり、口が利けなかったりすると、ずいぶんと不自由であったろう。差別も受けるがそれ以上に、人間社会の集団性に、ハンデを背負わされているようなものだ。
まあ、このように分節化の周りを私はウロウロするばかりであったが、Seminarの最後にfjwrくんが「匂いって、それだけを取り出して健康にいいとか悪いとか言えるの?」と疑問を投じたのが、印象的であった。つまり、科学的な探究もそうだが、私たちはものごとを分けに分ける分節化に夢中になって、ついつい私たち(の健康)自身は、それらの総体を全体として受け止めて、身を整えているのではないか。眼も耳も、鼻も舌も、それらの源泉になるもろもろの自然と(人がつくった社会と)いう環境のすべてに囲まれて、生きているのだ。その、最後に総合化していることを忘れて、いったんだけを取り出して全体を考えても、いびつな考えしかでてこない。でもねえ、まずは分節化しないことには、ただの混沌しか感じることができないのだよ。
fjwrくんは「混沌に持ち込め」と言っているのかもしれない。分けに分けてきた「現代」の人間世界を、細かく分節化して(その程度に応じて)人間をコトこまかく分節し、それに適応させるように社会の仕組みを組み立てる「アーキテクチャー」が大流行である。それは結局私たち人間を、タガにはめる作用をしている。いまこそ、よしてくれ、おれたちを分節化するのは、と叫んで混沌を見つめているのかもしれないと、考えるともなく思いながら、夜の十時半をすぎて帰宅したのでありました。
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