2017年7月15日土曜日

死してなお、「残像」を残して国家を脅かす


 今年前半の政治の話題はほとんどモリとカケ。そして「忖度」という流行語大賞候補も飛び出してきた。私たちが「公平」とか「公正」というとき、「身びいき」を否定する響きがある。身びいきというのは、言うまでもなく、自分の身内や友だちなど、自分と関係のある人を優遇することを言う。むろん日本ばかりではない。ネポティズムという政治学用語にもなっている。一般にネポティズムは前近代的な、遅れた社会に残された旧時代の遺制という響きがある。それが「忖度」というかたちで残されていることに、初めて気づいたかのようにマス・メディアで話題になるのだから、政治家たちもメディアの仕切り人たちもお惚けもいいところだ。


「盆暮の付け届け」というのもあった。届ける筋立てによっては「賄賂」とみられ、これは明らかに「不正」。だが、「付け届け」というのは、「(私も)身内・お友達に入れてください」というメッセージである。相手とじぶんの立場によって「身びいき」の具体性がイメージできるときは「賄賂」となるから、賢い人たちは、そういう社会的非難を浴びるような真似はしない。袖の下でもスジのはっきりしない「付け届け」でも、ことを運ぶシステムが円滑でない時の「潤滑剤」だと、発展途上国の文化を研究していたサミュエル・ハンチントンというアメリカの研究者が、どこかでしゃべっていた。単純に「前近代的」と片づけるのではなく、社会関係の中でシステムをスムーズに動かす際の有用性に着目して評価したというわけである。

「身内・お友達」という立場も、システムの受け容れ口に蝟集する多数の「希望者」を(受付順とか、処理を早くする順番とかで)選別するときのイメージでいえば、陰影をつけて目立たせる要素である。だから前近代とかポスト近代とかにかかわりなく、相変わらず色濃く残る。「残影」「残像」でもある。だが、「公平/公正な」システムがそのまま作動すれば、人々は平穏に暮らせるだろうか。そう問いかける映画を見た。

 アンジェイ・ワイダ監督「残像」、ポーランド映画、2016年。アンジェイ・ワイダの名を聞いてすぐに思い浮かべるのは「灰とダイヤモンド」、1958年制作の映画。体制に翻弄される青年の悲哀を描いたと、当時の私は受け止めていた。「残像」のワイダは、体制に「公平公正に」処分されていく一人の芸術家の悲哀を描く。

 社会主義ポーランドの社会システムが冷徹に貫かれる。カンディンスキーやシャガールなどとも交流のあったという高名な画家、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキーが、主導的な党の方針と対立する芸術観をもつことを理由に、芸術協会を除名され、仕事も、画材を買う切符も、食べ物を購入する配給票も手に入れることができなくなる。こうして社会から締め出され、ついには餓死するように死んでいく。「灰とダイヤモンド」と同様に、暗く陰鬱に終わる映画だ。

 このシステムの運営が、公平・公正なのである。高名な芸術家という権威さえ無効にしてしまうほど人々の処遇は公平である。肉を手に入れるためにつくる行列、しかしストゥシェミンスキーに片足がないために列の前に行けと人々は順番を譲る。だが、配給票を持っていないものには売れないと拒まれる。これは不公正であろうか。下宿の女主人がスープをつくってきてくれる。ここ何週分かの食事代金を支払ってほしいという。支払えないと断ると、スープをもっていってしまう。これは冷たい仕打ちだろうか。これは社会システムが、ネポティズムとかイデオロギー抜きに作動している姿ではないか。

 対する人の顔を見て、彼・彼女のときはこうして彼奴らのときはああするという差異的な振る舞いを「えこひいき」だとか「差別だ」と考えてきた。だから、高名な画家であろうが、無名の市民であろうが、分け隔てなく遇するシステマティックなシステムを、私なども公平・公正と受け止めてきた。何処からその価値観を受け容れてきたのだろうかと、今さらながら思う。もちろんシステムであるから、それ自体に組み込まれている「差別性」はあると考えてきた。例えば父親と子どもが同じものを食べるわけでもないし、兄弟でも長男の方になににつけ重きが置かれるというのも、「公平」のうち。つまり序列があって当然であるが、その序列の裁定基準が公にされて(承認されて)いるかどうかが、問題になる。とすると、共産党独裁が憲法に規定されている社会主義国家の場合、その裁定基準は党の方針にあり、システムとして成立している。しかもソビエトを「権威」とする社会主義ポーランドが選択できる余地は(たとえあったとしても)さほど広くない。

 ストゥシェミンスキーは、節を曲げなかったためにシステマティックに排斥され、零落して餓死するようになった。彼に同情する友人はいた。彼を支援して当局に逮捕されたりにらまれる教え子たちもたくさんいた。だがそれはとどのつまり力にならず、彼は孤立する。「ポーランド政府が要求した社会主義リアリズムに真っ向から反発したために、芸術家としての名声も、尊厳も踏みにじられていく」「」祖国への報われる愛に殉じた、不屈の精神」とキャッチ・チラシは謳うが、彼は自らの身の内に培った「残像」に縛られて身動きが取れなくなっていたと、ワイダは読み取ったのではないか。そう私は思った。

 むろん、生涯を通じて培った芸術観を捨てよというのではないが、もはやシステムの前に「藝術などやってられない」という見切りをして、単なる市民として生きていく道を選べなかったのであろうかと、ただの市民でしかない私は、凡々と思う。つまりストゥシェミンスキーは彼自身が培った「高名な画家という名声の残像」にとらわれて、人の暮らしというものが何であるかに思い及ばなかったと、ワイダは言いたかったのではないか。

 帰宅して新聞を広げてみると、「劉暁波氏死去」のニュースが載っている。この方こそ、過去の名声という「残像」に拠るよりも、現実の「抑圧」そのものに抗することを、ただの市民の身をもってしていると思う。死してなお、(人々の網膜に)残像を残して国家を脅かす、そういう生き方こそあらまほしきことと、ワイダが願っていたのではないか。そう思えてならない。

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