2017年7月19日水曜日
供養という自己認識のかたち
「ささらほうさら」7月の話を締めくくりたい。自身の身を置く文化的なギャップに鬱屈を感じていたmsokさんは、『ハチロー伝』を書くことで、わが身の祖型である父親の鬱乎たる思いを晴らしたというのではない。じつはハチロー伝の後半の半分は、歳をとったハチローさんが事業でもそれなりの位置を占め、商工会や町内会でも名士の立場に置かれるようになる。受動的で引っ込み思案のハチローさん自身が変わっていくさまが描かれている。「比翼連理ではないが……」と考えられていた父母の関係も、信仰を介在させた社会的活動が功を奏して、ハチローさんの身の置き所が定まっていく様子が浮かび上がっている。msokさんは、そうして系譜をたどり、養子として十二代目となったハチローさんを中興の祖ではないかと評価する。大団円ではないか。
なのになぜ、msokさんは「ハチローさんの鬱屈を晴らす」と言ったのか。
ハチローさんが入院していたときの「看病」の様子が『ハチロー伝』の冒頭に出てくる。世話をする家族のものが「看病」という病気になると記しているほど、ハチローさんは拘束を嫌って暴れ、時と処を構わず大声を出して演説する。付き添っているものは振り回され閉口していたと克明に記録している。そのことが(たぶん)msokさんの、ハチローさんへの探索の入口になったのではないかと思われる。つまりmsokさんは、時間を遡行してハチローさんの末期の鬱屈が含みもつ「かんけい」をたどる旅に出た(と思われる)。そうすることによって、彼自身が封印してきた父親とのDNA的な継承類比と反発の関係を、まず一族という次元に戻し、さらにたどり返すことのできる350年の歴史関係に位置づけ、そうして再び、ハチローさんが生まれて後に歩いた航跡を日本や世界の現代史とともに視界に収めるという『ハチロー伝』は、じつは、msok自身が「何処から来て何処へ行くのか」という現実世界へのマッピングではないかと、強く感じる。
そうしてふと思いが重なるのは、柳田国男の「先祖の話」。
柳田国男が「家督をまもるというのは(文化を受け継ぎ)子孫後裔にも守護するという念慮」と書き記している。「先祖の話」の中で「愚者をたわけというのは、田を分けることが愚かなことだからなどと、冗談見たような一説もあった」と、百姓が田んぼを分けては生きていけない時代があったことによって「家督」の長子相続が合理性を持っていたこと、分家に田分けを禁じる申し合わせがあったことに触れ、ために親は隠居をする形で別の原野山林に移り住み、そこを開墾して、次男の家督とし次男の分家をインキョと呼ぶ例を示し、三男の分家をサンキョと呼んだ例も示している。そうして、「(わたしは)先祖になる」と柳田と同年齢の年寄りが静かに話したことを取り上げ、自分の代で懸命に働いて「家督」を築き子孫末裔に残そうとする「意思」を、いわば人生の意味のように位置づけている。これはハチローさんを「中興の祖」と呼ぶmsokさんの思いに通じる。もっともmsokさんは「子孫に美田を残さず」という点でハチローさんは立派であったと言っているから、「家督」がここではいわゆる金銭・不動産を意味していない。柳田国男も百姓にとって田という不動産が「家督」の一番大きな評価を得ていたと言いながらも、時代も変わり、商家では暖簾を分け、得意を引き継ぎ、信用を大事にするという「文化としての家督」を受け継ぐと、意味あいの幅を大きく広げている。
でも、なぜ「先祖の話」なのか。じつは柳田国男がこの400字詰め原稿用紙にして300枚くらいの、この一文を書いたのは、昭和20年の4月上旬から5月のあいだ。しかしこれが出版されたのは戦争が終わってからであった。そしてその序文で、柳田は次のように書きつける。
《この度の超非常時局によって、国民の生活は底の底から引っかきまわされた。日頃は見聞することもできぬような、悲壮な痛烈な人間現象が、全国のもっとも静かな区域にも簇出している。曾ては常人が口にすることさえ畏れていた死後の世界、霊魂はあるかないかの疑問、さては生者のこれに対する心の奥の感じと考え方等々、おおよそ国民の意思と愛情とを、縦に百代に亙って繋ぎ合わせていた絲筋のようなものが、突如としてすべての人生の表層に顕れ来ったのを、じっと見守っていった人もこの読者のあいだには多いのである。》
これは「戦死者」をもつ人々のことである。むろん従軍して戦地で命を落としたものもいよう。空襲によって焼かれたものもいよう。あるいは沖縄のように戦場となってわけもわからないうちに死を迎えたものもいたに違いない。その死者に対して次のようにつづける。
《……此方の人たちは先祖は祭るべきもの、そうして自分たちの家で祭るのでなければ、何処でも他では祭る者の無い人の霊、即ち先祖は必ず各々家々に伴うものと思っている……》
つまり、死者は弔われねばならないが、誰が弔ってもいいというものではない。「先祖は必ず各々家々に伴うもの」と「死者の霊」の具体関係性を取り出す。家々についても柳田国男は遡ることに限定的である。聴き取り調査において「先祖の話」を尋ねたとき、源平藤橘に連なる始祖を先祖というのがただひとりだけ(六十何代というのが)いたが、わが家でしか知られていない先祖(古いのは二十何代、たいていは十五世か十八世)というのがいて、後者をここでいう「先祖」と限定している。後者のケースにあたるとして自らの出自にも詳しく触れている。
《人を神に崇めた各地の御社と、今では此点が明らかにちがっている》
と言及するのが、何を意味しているか、もうお分かりであろう。つまり国家神道の祭りごととは一線を画して「先祖の霊」を家々の御霊として祭ることを主題にして、なぜそれが主題になるかを次のように語りだす。
《今ならば早く立派な人になれとでもいう代わりに、精出して学問をしてご先祖になりなさいと、少しも不吉な感じは無しに、言って聞かせたものである》
ここへ来て、msokさんの『ハチロー伝』に戻ることができる。引っ込み思案のハチローさんの尻を叩いて操縦していた母親のカネコさんが13人兄弟姉妹の長子であったことはすでに記した。じつは戦後msokさんの妹がわずか1歳半でジフテリアに罹って亡くなったことにつづけて、こう記している。
《(カネコさんは)これまでもすぐ下の妹を病気で喪ったのを皮切りに、戦争中には何とも酷いことに四人までもの弟たちの戦死に遭っていて、その悲しさの総量は想像するに余りがある。その上今度は自分の稚い娘の死だ。家つづいた弟妹の死によって肉親の死に対する悲しみに或る意味で馴致されていたにも拘らず、自分の腹を痛めた子供の死は凡ゆるものを無に帰せしめ、暫くの間半ば狂乱の状態のままだった。》
この、母親カネコさんの狂乱こそ、msokさんの原点をなしたのではないか。彼が、世の中の弱小のもの、苦難に浸されている者たちのかたわらに身を置いているときに感じる「面白い」という心地よさの感触こそ、じつは彼がハチローさんやカネコさんから受け継いだ「家督」であったのである。
『ハチロー伝』を書くことによってmsokさんは「先祖の供養」をしている。そしてそれをすることによって、彼自身が「先祖」となり、子ども世代に「家督」を受け継ぐ意思を示したのである。大きな墓所だけが遺産であったというハチロー家にふさわしい「家督」ではないか。
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