2017年7月16日日曜日

すっかり埒外のヒト


 塚越健司「情報社会とハクティビズム」を読むと、もう私などは、すっかり埒外の人になっていると、わかる。ITを含め、世の中はものすごい変わり方をしているんだと、感嘆しながら読みすすめた。東浩紀が「動物化するポストモダン」で環境管理型権力に移行していると語り、アーキテクチャーを論題にしたころまではおおよそイメージがつかめていた、と思っていた。それからまだ7年くらいしか経たないのに、現実社会の進展には目を瞠る以上のものがある。もっとも、レイ・カーツワイルの「シンギュラリティ論」を聞けば、(世界は指数関数的に変化するから)7年は十分すぎる時間ではある。


 いやじつは、防犯カメラにしても、それをチェックするのは人間でしょ。そんなに細かく見分けることはできないんじゃないの? と思わないでもなかった。だから「常時監視される」って言っても、コトが起こった「後の祭り」と思わないでもなかった。しかしそれが、ほぼリアルタイムで人を識別し、車種を区別し、誰が何処をどう通ったか通らないかを認知することができるというから、その「目」から逃れるのは容易ではない。「共謀罪法」を手中にした権力が私たちの暮らしそのものを日常的に監視することへの懸念も、ひたひたと押し寄せると思える。つまり昨日記した「システム」が「公平・公正」に作動して、誰彼差別なく監視下に置くという。となると、「公平・公正」であればよいというのは、たいした価値をもたなくなる。

 防犯カメラのことを取り上げたのは、ほんのハシリのころのこと。塚越健司はウィキリークスやアノニマスを例示して、(暗号通信を使うことによって)発信源を特定させることなく、「現場の状況」を密告することができる機能が発達したと明かして、企業や法人や団体や行政権力などの「不正を告発する」衆人環視の眼が、張り巡らされつつあることでもあると、社会システムの逆監視状況が整いつつあると、展開する。ハクティビズムというのは、ハッカーとアクティビズムの合成語。ITの壁を突き破って「情報を公開」させ、公権力を衆人環視のもとに置こうという、積極的な状況への関与を意味している。なるほど、ITの熟達者の眼からすると、そのように見えるのか。東浩紀は国家の境界が開かれつつあるとみているようだが、グローバルなメディアがそのような機能を強く持つほど、「特定秘密法」とか「守秘義務」という締め付けを強めて、境界を明確にし、境界内の「法」の作用性を強化しているのが、今の日本の状況と言える。

 この塚越健司の「状況認識=ハクティビズム」からみると、今年前半の立法議会の主要話題のモリとカケの帰趨は、案外大きな問題ではないか。ただ単に「政権を信用する/しない」というよりも、権力の秘密保守のシステムに対して在野の衆人環視力が太刀打ちできるかどうかが、問われている。この、モリとカケ問題がうやむやになってしまうとすると、言うまでもなく、後者の負けになる。塚越が言う「衆人環視の状況」は机上の空論というか、エリートの間でだけの小現実となる。スノーデンとかアサンジというハクティビズムのヒーローの名を、私たちは耳にするだけ。そこに世界の著名ジャーナリズムがリンクして在野のパワーアップをはかっているとしても、私たちはそれの帰趨をかたずをのんで見守っているという、監視する衆人の立場を離れることはない。これでは、舞台ができた、さあ、踊ろうと言われても、エリートの出演者の踊りをみるだけで、わが暮らしを仕切ることにはならない。つまり、私たちは、その出立点から埒外の人になっているのだ。

 これは慨嘆しているのでもなく、卑下しているのでもない。世界の動向には、あいかわらず舞台を監視する衆人という役割を担っているにすぎないと、わが身の立ち位置をクールに見つめているだけである。見るのに飽きれば、環境管理社会の動物として、わがことだけに執着し、そこに悦びを求め、その刹那刹那を丁寧に生きて寿ぐ。そうして、極めて身近な「不公正・不平等」にビビッドに反応し、公権力を「身びいき」や「お友達優遇」に用いることに「処罰感情」を懐いて厳しく対処し、他方で、じぶんの処遇について格別の取り計らいがあることを(折あらば)期待するという、アンビバレンツを生きるのだろうか。トランプさんが「化けの皮」を剥いでくれたお蔭で、わが欲望のままを口にして、わが利得を最優先にすることが恥ずかしくなくなった。そういえば、秘所を覆うイチゴの葉っぱも近頃の週刊誌には見かけなくなった。羞恥心がアダムとイブの出発点であったことを考えると、やはり人間はヒトに戻ったといえるのかもしれない。

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