2017年7月9日日曜日

人の暮らしの岩盤とシンギュラリティ


 2045年までにシンギュラリティに達すると、AIの専門家たちが話題を振りまいている。シンギュラリティというのはブラックホールに突入したのちの世界という意味で、何が待っているかわからない歴史的大転換を意味するという。むろん地球がブラックホールに突入するというのではなく、AIのもたらす時代が人類史の大転換をもたらすというのである。そのなかの一人、レイ・カーツワイルは、エネルギーが無尽蔵になる、人の身体に予防接種をするように超小型化した安価なAIを注入して病気の予防や治療を行う、のちには脳の活動の補助装置AIを輸血するように挿入して、個々人の知的な蓄積情報を人体外部のクラウドに保存するなど、おおよそ人間そのものがAIと一体化する時代がやってくる、と予測している。


 人の仕事がAIに奪われてしまうのではないかという懸念に対して、人間は創造的な活動に専念できるようになると楽観的なのが、ちょっと社会関係のくびきを等閑視するSF世界のイメージのように思えて、ホントかなと思うのだが、やはりそれだけでないなと、旅の宿で思いをめぐらしていた。

 一昨日から一泊で、昔の仕事仲間に誘われて小淵沢の方へ遊びに行った。どこへ行くなどは全部お任せの気楽な旅。泊まった宿が意外なところであった。古守宿一作という築200年の古民家。南側と東側をぐるりと縁側が取り巻き、畳の間5室と水間・台所や土間、竈などのしつらえられたバクアップが北西側を占める。10人も泊まればいっぱいになる。縁側の周りには昔使われていた大きな農具が置かれて、古民家の雰囲気を醸している。そう意図してデザインしているというより、そうだよなあ、昔はどこもこうだったなあと、昔の納屋を思い出して、私のアイデンティティの体が頷いている。

 この古民家は小高い丘の上に位置している。南側が斜面になって下り、下の方には田んぼが広がる。その斜面一帯は畑。ナスやトウモロコシ、キャベツ、ウリ、キュウリ、ジャガイモ、タマネギ、葉物やハーブ、モロヘイヤやアスパラなど、ありとある農作物を育てている。細かく仕切り、あるところは必要に応じて寒冷紗をかけたり、ビニールをかけることができるように(今は)支柱だけがハウスの骨組みをさらしている。畑の周りには電線が張り巡らされる。イノシシよりもシカがみんな食ってしまうんよとご亭主は言う。サルは見かけないらしい。車一台が止まると塞いでしまうような入口から、古民家までびっしりと広葉の灌木が立ちその脇に草花が植わっている。アジサイが満開。色とりどりのアジサイというよりも、かたちとりどりのガクアジサイが目を惹く。ナツツバキが白い花を半ば落として、盛りを過ぎた気配を漂わせる。後ろの高台にはアカマツやモミのような針葉樹が風景の光背をなし、その前にベージュ色の霞がかかったような細い葉が緑いっぱいの中に際立っている。名前を聞いたが忘れてしまった。なんでも、亜熱帯の樹だと聞いた。

 この高台から南へ下る斜面は、釜無川に行き着き、そこからまた起ち上がって日向山へとつづき、その後ろに甲斐駒ケ岳を控える。木立に遮られてわからなかったが、翌朝、別棟になっている風呂からみると、甲斐駒ケ岳から東へアサヨ峰と重なり、鳳凰三山の地蔵岳のオベリスクがくっきりと見える。アサヨ峰の稜線上に、ちょっぴり北岳が頭をみせている。見事な借景。

 この宿、宿泊料金は決して安くはない。一泊15000円。食べ物は「一作」の名の通り、ここで獲れた収穫物の「和食」で埋め尽くされる。野菜尽くしといえば野菜ばかり、醤油も味噌も何種類もの酢も全部手作り。鷹の爪の味噌だれもキュウリにつけて食べるだけでなかなか歯ごたえも味わいもおいしい。茹でたキャベツもナスの煮びたしもラッキョウや梅干しもウリの奈良漬けや浅漬けも、大根の紫蘇漬けも懐かしい味わいがある。私たちは年寄りだから、これにほうとうがついたり、グリーンピースの豆ごはんがつくと、それだけで食べきれなくなる。

 部屋のなかは、やはり昔風の納戸がそちこちにある。こちらを開くと大型TVの画面が現れ、そちらを開けると冷蔵庫があって、お酒やワインや焼酎やビールが詰め込んである。自由に開けておとりください、清算はお帰りにというわけ。つまり、古民家がそのまんまで宿になるわけではなく、肝心なところは現代的な快適を損なわないように工夫されているのだ。トイレはシャワートイレだし、廊下で続く別棟の二階は、上の斜面の一階になっていて、そちらから庭へ出入りもできる。太い梁を巡らせた堅牢簡素なつくり。冷房はないが風通しが良く、網戸の向こうには苔が生え草生す畑が広がり、鶏小屋に烏骨鶏も見受ける。別棟の風呂も、建物は古めかしいが、内側は檜風呂のように木の香りが漂う。一階では蚊帳をつっていた。

 この敷地の広さがどれほどなのかわからないが、朝、散歩をして経めぐってみると小学校ひとつ分よりも広いと感じた。そこを存分に手入れして、使い尽くしている。南面の庭に植えた木々が大きくなったために借景が縁側から見えなくなった。樹の向こうに展望台を設え、ベンチを置いて、そこで時間を過ごせるように工夫はしているが、それもまた自然の成り行きと、ご亭主は笑っている。

 秋から冬にかけてはジビエ料理に衣替えするという。猟をして獲物を解体し、残さず使うように手を加えるのだそうだ。いつでも泊まれるかと尋ねると「畑仕事がないときはね」と恬淡としている。まだ五十代前後に見えるご亭主夫婦が、目下大学生の、遠方に住む子どもとやっていければ暮らし向きは十分、後は小淵沢の町をどう興していくか思案しているという風情であった。

 さてそこで、冒頭のシンギュラリティと関係するのだが、AIの急進展でエネルギーが大量に安価に手に入り、食糧生産も工業化されて人の管理の手を離れ、SF的にすべての人の暮らしが創造的余暇に当てられると専門家たちが夢を語るとき、いつも私が疑念を持つのは、ごく根柢的なところは、そう簡単にAI化できないのではないかということだ。この、古守宿一作のご亭主が過ごしている日々は、丁寧に作物を植え育て、いくぶん野生と駆け引きをしながら収穫をし「和食」と称して調理するというもの。その一つひとつの振る舞いは、今の私たちの暮らしの岩盤をなしているのではないか。ちょうど靴の紐を結ぶのがAIにとっては極めて高度な作業になるように、人にとって肝心な、基本になるところは案外AIに任せる領域から外れるように思う。また、この宿に宿泊する人に、外国人が増えてきたように、私たちの体のどこかに、身に刻まれたアイデンティティの岩盤が顔を出す。それは、単に消費的に生きている私たちの日々の出立点を揮換えるように振り返るように体が要求しているのかもしれないと思う。

 レイ・カーツワイルがどれだけ人の暮らしの岩盤を、彼の思索に参入しているかわからないが、来るべきシンギュラリティが人の暮らしを置いて言ってしまわないように願わないではいられない。

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