2017年7月14日金曜日

書き言葉というカニの藻屑


 「ささらほうさら」の今月の講師はmskさん。これといった「お題」を打たない。まず、《自分で自分にインタビュー》という「資料」を配る。読めばいいというのでは味気ないからでしょうか。若いwさんをインタビュアーに仕立て、mskさんが応えるというふうに、「資料」を読む。なぜそんなまどろっこしいやり方をとるのか。(たぶん)我がことを口にするのが、恥ずかしいんでしょう。でも、わがことに触れずに何かを語るというほど、私たちは若くない。何をインタビューしているか。


(1)畢生の仕事と(昨年11月に)のたまわった「時代小説」の進展具合。その一部を抜粋して読み聞かせ(させ)、その執筆の前段で史料を読み込むときの「古文書」解読の作法に触れる。
(2)松尾隆にインタビューした新聞記事「シューベルトの世界を訳す」のコピーをみせて、「まあ、なりゆきです」ということばを借用する。
(3)12年前に没した父親について記したmskさんの著書を配って、父親の生存中に持っていた鬱乎たる思いをじつは自分も共有していたのではないかと感懐を語る。

 要は、今日の講座の講師としての弁明を「自問自答インタビュー」してしまっているという代物。なんとも、恥ずかしがるのもいい加減にしろと、この一文を読む人は思うかもしれない。だがそうではないのだ。子細には立ち入れないが(立ち入ると、結局この「インタビュー」を全文紹介することになる)、「ことば」のやりとりの面白さ、用語法の特異さは、声に出して読んではわからないことが多々ある。

「重畳(ちょうじょう)するひまの重さ」「齎(もたら)す」「軈(やが)て」「論理の筋道を履(ふ)む誠実さに外れる慮外者」「苟(いやしく)も」「遉(さすが)に」「喙(くちばし)を容れる」「苦しい」「困しい」「戹しい」「窘しい」いずれのくるしいと読む。「堆(うずたか)く」などなど。ついにはこのパソコンの辞書では出てこない文字もあった。「りっしんべん+永」の字で、「こらえる」と読ませる。もともとこの文字は和語としてつかわれたらしく音読みがない。

 つまりmskさんは口舌の輩ではなく、エクリチュールの人なのだ。書いたのを読んでもらうことによって、字義の特異さをアピールしている。むかしならば、文字を知っていることが博学多識の象徴のように言われたかもしれないが、パソコン・ワープロのいまとなっては、カニが甲羅につける藻屑のようにただの飾り。見た人も、ふ~ん、そう読むんだと感心する程度で通り過ぎてしまう。つまりこれが、彼の持ち来っている鬱乎たる思いの一端かもしれない。

 用語法の特異さだけではない。行きがかりでダーク・マターが登場する。暇と時間空間論が交錯する。

「暇がありすぎて……暇の重さに押圧されて自分の頭も重くなり、鈍くなり」
「えっ、暇に重さがあるんですか」
「暇というのは時間と空間ですが、それをゆがませたり負荷をかけたりして重さを齎す何物かのせいで、あるんです」

 と、この何物かをダーク・マターと名づけていたりする。この暇の重さは、たぶん私が先日(7/11)記した「時の密度」と同じことを、違う地点から指しているのではないかと、話しを聞きながら思ったりした。もっともmskさんは毛ほども何かを「問題提起」したいわけではなく、ただただ面白おかしく語りだして、皆さんのご機嫌をうかがっているだけという風情。

 47年目の老人会「ささらほうさら」が(もっとも47年前から老人であったわけではないが)、呼吸をしているのと同じくらい「時をかさね」密度の薄い(わが身の)時を、逆に(そのせいで)重くなった負荷に耐えて過ごしているということなのかもしれない。

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