2017年7月18日火曜日

身の刻んだ文化と飛翔するじぶんの大いなるギャップ


 「ささらほうさら」の7月例会の話し「書き言葉というカニの藻屑」(7/14)につづける。講師を務めたmsokさんの「お題」は、終わってみれば、彼の自画像という三題噺であった。(1)時代小説の進展具合、(2)「まあ、なりゆきです」ということばの借用、(3)亡き父に捧げた『ハチロー伝』のこと。三題噺という構成が、クラシックに造詣の深い彼の「世界構成」にふさわしいのかどうか、私にはちょっとわからない。彼ならば、起承転結の四部構成がしっくりくるというのではないかと思うのだが、人は変わる。彼だって、三題噺の方がしっくりくる語り方を、この際はしたかったのかもしれないと、考えるともなく思っている。


 さて、文筆の人、エクリチュールの噺家・msokさんは2003年に、埼玉文芸賞の準賞を受賞している。いまはリリアホールなどが立ち並んで、すっかりどこにでもある近代的な駅前になってしまった川口駅西口の昔日の光景に身を置いて、子どものころの混沌を生きる世界をメルヘン的に描き出した『キューポランド・チルドレン』が、「エッセイ部門」の賞を得たのであった。この作品、メルヘン的というのは、読み終わって十四年経って想い起した私の「印象」。

 あらためて読み返すと、著者の身体に刻まれた文化である。文化というと高尚に受け取るかもしれないが、近頃流行りのアーキテクチャーといえば言える。敗戦後日本の庶民の暮らしをとり囲む混沌として環境は、まさにその頃の子どもにとっては、所与の文化であった。建てつけの悪い長屋住まい、共同のポンプ井戸や共同便所、竈や七輪、練炭や炭や薪といった敗戦後の暮らしの情景をよく記している。あるいはまた、台風による大水害が町を襲い、一帯が床上1メートルの浸水という災厄に見舞われたことを克明に書き留め、なお、その後に一晩二晩のうちに二階家を造りつける急ごしらえの家作がご近所相次いで行われたと。思えば混沌の時代、公有地を借り受けて住う人々の知恵と根性を彷彿とさせる記述もある(そう言えばどこかで読んだ記憶があるが、イタリアでも戦後の一時期、広場であれ公園であれ、人目につかずに建物を建ててしまえば居住権が成立するというので、ブームになったことがあった。日本でもそれと同じことがあったのだね)。体に刻まれた文化も、こうして書き留めることによって自らがとらえた自身の輪郭となり、それはすなわち「世界」が起ちあがるときでもある。

 さてこの、埼玉文藝賞を受賞するときのmsokさんの恥ずかしがり様といったら無かった。身を縮めるようにして片隅に鎮座し、畏る恐る背を丸めて賞を受ける姿は、まるで場違いなところに来てしまって身の置き場がないという風情。シャイというのではない。じぶんの存在それ自体が「場違い」であると感じているというか、世をはばかるようであった。ならばそんな作品、書かねばよいのに、と岡目八目は言うかもしれない。だがそうではない。己の輪郭を描き出すことは、世界をとらえることでもある。そうしないではいられない業と世をはばかる自身の存在にも業といいたいような気配が、三題噺の三つ目に出てくる。父親のことを記した『ハチロー伝』である。

 これはmsokさんの父・ハチローさんが亡くなった年に「亡き父の生涯」を記し置いた冊子。400字詰め原稿用紙にすると260枚に及ぶ。大正二年に生まれ92歳で天寿を全うしたハチローさんの生々流転が、関東大震災やら日華事変で召集を受けて従軍していることなど、克明に記されている。九人兄弟姉妹の末っ子として生まれ、祖父の実家の家督を継ぐものとして養子に出るかたちで(生家と異なる)苗字をもらい受けるという、いわばmsokさんの係累をたどる流れが挟まる。なんと遡ればmsokさんは13代目の当主。ひと世代30年とみても、400年近くになる。だが、九人兄弟の末っ子として継いだ家は縁戚すでに絶え(継いだ家督財産も、後見人が使い果たし)ハチローさんだけが苗字を背負って孤立する様子。それを淡々と追いながらなお、大正デモクラシーから戦争の時代をへる世界史的転変も書き込まれ、さながらハチローさんが近現代史の渦中を生きてきたことを俯瞰する。それがDNAを通じてmsokさんの身体に刻まれている痕跡のように浮かび上がる。『ハチロー伝』は、引っ込み思案がゆえに親戚に粗末に扱われたハチローさんの「鬱乎たる思い」を晴らすような、動機が行間に揺蕩う。400年近くたどれる係累というのも、ハッタリではなく実家に残る古文書に照らしている。また、ハチローさんの軍隊時代の従軍歴も、「軍隊手牒」の記載に基づいているというから、msokさんの「史料」読み取りの眼力は、なかなかのものであるといってよい。これは三題噺(1)の古文書解読にも通じる。

 この中で父親の性格を、《……といって彼が軽はずみのオッチョコチョイな人間というわけではない。むしろ全く正反対、引っ込み思案で進取性がほとんどなく、腰が重くて著しく素軽さに欠ける人間といったほうがいい》と記し、自らがその血を脈々と受け継いでいることを歯がゆく、かつ愛おしく思っている気配を湛える。若いころの父親に対する反撥は、自分の受け継いだ血への反発であったと、msokさんは述懐している。もちろんmsokさんの母親が反対の気性をもっていたために、「比翼連理なんぞとゆかしい言葉で表現できる夫婦とは言い難かったが……市井の夫婦としてごくごく平凡に生きてくれた」と好ましく振り返り、やはり母親の血を受け継いでいるわが身への視線も怠りない。ただ父親に即して言えば、母親の出自は13人兄弟姉妹の最長姉であったこともあるが、川口の名士の家であった。それもあって、勝気な気性の母親に支えられてハチローさんの引っ込み思案であるがゆえに腰の定まらない戦後生活が、かろうじて保たれてきた事実。その間に母親の実家一族から受けたハチローさんを軽んずるまなざしが、わが身を貫く視線にも思えて、msokさんは(アンビバレンツにも)何とか見返してやりたいと執念を燃やして、『ハチロー伝』をものしたと語っている。そして、こう付け加える。

 《因みにここで家族の面々の干支を並べてみようか。どうもおとなしい弱小の部類に属する動物ばかりであるのが面白い。……動物園だとすると檻のある本園ではなく放し飼いの子供動物園にすべて収まる。これをもってこれをみれば、……ハチローを筆頭に本来は此の如く弱小でおとなしい人間ばかりなのだ》

 ここに、msokさんの世界との関係が読み取れる。『キューポランド・チルドレン』もそうであるが、msokさんの描き出す「世界」はきまって、弱っちいもの、負けたもの、汚いもの、人が避けて通りたくなるもの、眼をそむけたくなること、うじうじと内に籠って閉じてしまうようなこと、たまりにたまる鬱屈がはけ口を求めようにも何処にも出口がなく、ついには心裡を蝕んで病みいるようなことに目を向ける。彼自身『ハチロー伝』のなかで、かつて高校の教師をやっていたのを辞めてしまうくだりが記されている。夜間高校の教師であったときは「仕事は滅法面白かったが、五年目に県南の全日制高校に移ってから膨らんだ風船が急に萎んだようになって無性に面白くなくなり、結果、担任していた三年生を卒業させたその五ヶ月後に成り行き任せで罷めてしまった」と。彼の務めていた全日制高校というのは県内でも有数の進学校であった。何があったのか。彼自身の心裡で文化の衝突があったと、私は読み取った。

 彼の記すキューポランドの世界は、戦後の混沌も含めて、おおよそ日本が発展途上国もいいところ、親たちも日々あくせく働いて糊口をしのぐのに精いっぱいであった。その姿を目にしながらmsokさんは県内有数のエリート高校に進学する。つまり親にとっては自慢の息子になり、一族で初めて有名大学へすすむ。親がどうやって彼の進学費用を工面したか。

《結局普段の収入や貯蓄だけでは足りず借金などして教育費を捻出している。「などして」と言うには意味がある》

 と思わせぶりに記して、もはや時効と思ったのであろう、親がやった「やりくり」の秘策を「一種の棚渡りともいうべき金策術」「ある種の芸当」と称して記している。むろんここで詳しく明かすわけにはいかない。つまりmsokさんは(近代の出世物語に当てはめれば)大きく飛翔する機会と舞台を手に入れたのであった。だが彼にとって、ハチローさんの、あるいはハチローさん立て直しの原動力であった母親の「苦心」が目に入っただけに、それだけでも肩幅が狭いと感じたのではなかろうか。加えて体に刻まれたキューポランドの「記憶」が、彼の「世界」を見る視線を、自らの出自の始原へと向かわせたとは言えまいか。

 定時制高校の教師をしているときは、「面白かった」という。彼が務めていたころは、高度経済成長のさなか。「金の卵」と言われ、中学卒業と同時に職に就き、夜の高校に通う生徒たちが教室にあふれていた。その当時の定時制高校は、経済的に恵まれない家庭の子どもたちであるだけに、向学心は人一倍強く、負けん気も強かった。まして彼がいた夜の学校は、北部の女子進学校。まさに彼自身が歩いてきた道を、たどっている趣があった。ところが彼が転勤したのは高度経済成長がいよいよ佳境にかかる1970年代の前半。「南部の進学校」はそこそこ裕福な家庭の子どもたちが何不自由なく青春を謳歌する時世であった。その新しい時代の文化に(これは必ずしも生徒がということではなく、教師や親がもっていた進学第一優先とする価値意識の文化に)、msokさん自身が耐えられなくなったのではなかったろうか。

 この、文化的な階層の持つギャップを埋め合わせることのできない鬱屈は、芥川龍之介の自殺が示していると、吉本隆明が書いてはいなかったか。それと同じ業を感じて、道筋を変えた彼を、では、その後の世の中はどう見てきたのだろうか。そのあたりにまで踏み込んで考えるのは、また次回の「お題」ということになるのであろうか。

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