2017年7月1日土曜日
詫びの仕方
稲田防衛相が選挙の応援演説で「防衛省、自衛隊、防衛大臣としてよろしくお願いします」とやって、軍事組織の政治的中立性をないがしろにしてしまった。指摘を受けて彼女は前言を撤回したが、それで済むことなのだろうか。現職の防衛大臣である。昨日の記者会見で彼女は「誤解を招きかねない発言であった」と繰り返し弁明をした。だが、「誤解を招きかねない発言」ではない。「誤解の余地のない発言」であった。彼女は弁護士の資格も持つというから、法律の専門家である。それが単に「発言撤回」と「謝罪」で「暴力装置の政治的中立性」は保てると考えられるか。これは、「軽率」とか「うっかり」とか「失言」というレベルのことではない。国家の暴力装置を担う担当大臣として踏み越えてはならない根幹を外している。これを官房長官も「当人が説明することではあるが、辞任や罷免に相当することではない」と表明している。ということは、彼女の「発言」を根幹においては容認したということになろう。国家体制の根幹にかかわる明らかに一線を超えた言説を政府首脳が擁護していることであり、単なる政局の問題ではない。
稲田防衛相の発言で思いかんだのは、丸山真男の「であることとすること」。防衛大臣は「政治的に中立である」のではなく、「政治的に中立であることを目指しつづける」ことによって「政治的に中立でいられる」という「関係的存在」であることを「日本の思想」の根幹として説いた。言葉を換えて言うと、「政治的に中立」というのは実体ではなく、その具体的なありようによって実態的に明かされつづけなければならない。それを実体的にとらえてきたことが「日本の思想」の根幹にあったからタテマエとホンネというダブルスタンダードを生んだと批判したのが、丸山真男であった。
つまりこれを今回の稲田防衛相の発言に重ねてみると、彼女の実態的ありようが「政治的中立性を損なっている」のであり、彼女の発言が「防衛相は政治的に中立である」ことを「誤解」させたのではないということなのだ。だが問題はそこにとどまらないと私は、民俗学者・千葉徳爾の『切腹の話』(講談社現代新書、1972年)を思い浮かべる。それは「切腹」のたどった航跡を昭和二十年の満州に残された三人の看護師の自決からたどり返し、金生の切腹を概観したのち、中世の切腹を概観し、「切腹」の形式が定型化していないとしたうえで、さらに『播磨国風土記』へとおよぶというものであるが、何より印象に残っているのが、その展開は民俗学者らしく「話」の集積であり、記述の一つひとつが具体的である。これを最近延々と引用して(千葉徳爾を紹介して)いる本に出合ったので、ごくごくその一部を股引きする(大塚英志『殺生と戦争の民俗学』角川選書、2017年)。
《切り口が上腹部であれば、腹壁と腹部が切れると大腸が露出する。生体では淡灰褐色の太い臓器だが、大便が入っていると青褐色にみえることもあるらしい。これに対して下腹部を切った場合には淡褐色のなめらかな小腸の露出するのが通例で、黄褐色の大網膜が伴うこともある。……これらを手でつかみだすと、あとから胃あるいは肝臓の一部が切口に露れることもありうるが、通常はよほど切口が大きくなくては外から見えるようにはならず十文字に切っても一般的にはこれらの内臓は見えないのである。》
これは「定型化」した「切腹」と異なり、切腹の出自が己の「淡褐色のなめらかな小腸の露出するのが通例」で、それは腸に含むものがなく、朱く純粋であることを「つかみだして……見るものに披露する」儀式であったと起点を抑え、定型化に向かったと論じている。
そこで想い起すのは、慶応4年(1868年)の「堺事件」。舟から上陸しようとしたフランス兵士を、警備にあたっていた土佐藩士が殺害した事件だが、処罰を求めたフランスに圧され、25名の切腹を行うことになった。切腹した藩士が、己の腸を引き出して検分するフランス公使らに投げつけるなどし、気分が悪くなった公使らが途中で切腹をやめるよう求めた出来事である。ここに、千葉徳爾の記述に沿う「切腹」の原基がうかがえる。腹を切ってお詫びをするというのは、わが身の行ったことをいろいろと詮索されることはあろうが、腹の裡をみよと曝して見せる行為であった。「詫び」の基本は、もしそれが(見かけによる)「誤解」であったとしても、誤解した方に問題があったとみせしめる行為であったといえる。
武士に二言はないというかたちは、取り消すというのはあり得ず、もしそれが誤解を生んだのであれば、私の腸を御覧じろと腹を切って見せる「詫び」のかたちを生んだ。その潔さに「武士道」を入れ込み文言として定式化したのが、鍋島藩の「葉隠」であった。女に切腹を求めるのかという方がいるかもしれない。ぜひとも上に書いた「昭和二十年の満州に残された看護師三人の自決」部分をみてもらいたい。千葉徳爾が「切腹の話」を探ろうとした思いが切々と伝わってくる。私はこの看護師たちの自決は「満州国」にまつわる日本帝国の始末を(中華現地の人々に、そして満州国で棄民された日本国民らに)「詫びる」振る舞いであったと、今にして思う。それほどに、「詫び」の真摯さを含みこんだ自決であった。
それに比して今の政治家たち、ことに今の安倍政権の政治家たちの「詫び」は、詫びの体をなしていない。これは、日本のリーダーが朽ちている証ではないか。高度消費社会を堪能した挙句に、ここまで私たちの文化は腐ってきた。いまの防衛相は「good looking」を売りにしているそうだ。見かけの良さから腸まで透けて見えるわけではないが、見かけでひとを判断してはいけませんよと幼いころから教わってきた私たちとしては、今一度眉に唾つけて世の中を見るしかない。
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