2017年7月28日金曜日
正しさの修正ができないポピュリスト
ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』(岩波書店、2017年)を読む。ポピュリズムと民主主義の差異について力を入れて検討しているところが面白かった。ポピュリズムは代表制民主主義の場面においてのみ成立する概念と前提しているから、民主主義と紛らわしくなる。あるいは、どこかで民主主義的な制度の下に成立した政権が、いつのまにかポピュリズムと称されるように変質していることも考えられる。だからミュラーは次のように、不可能性の上に可能性を追求するような提示をする。
《わたしはまた、ポピュリズムの成功が、いわゆる民主主義の約束に結びついていると提示したい。その約束は、これまで果たされず、そしてある意味でわれわれの社会では決して果たされることのないものである。》
彼がいう「民主主義の約束」というのは、「現代世界における民主主義の魅力だけでなく、その周期的な失敗を説明する直感」として次のように開いている。
《……端的に言えば、人民は統治できるというものだ。少なくとも理論上、ポピュリストは、全体としての人民が共通かつ一貫した意志を持つだけでなく、人民が命令委任の形式で要求したものを正しい代表が実行できるという意味において、人民はまた統治もできると主張する。……民主主義とは自治であり、理想的に統治できるものは、単なるマジョリティではなく、全体である、と。》
そしてこう続ける。
《……ポピュリストは、あたかもそうした約束を果たすことができるかのように語り、行動する。彼らはまた、人民が一つで反対派は仮にその存在が認められたとしても、すぐに消え去るかのように語り、行動する。さらに彼らは、人民が、正しい代表に授権さえすれば、自分たちの運命を完全に支配できるかのように語る。もちろん、彼らは人民自体の集合的な能力については語らず、人民自身が実際に国家の職務を占めることができるとも言い張らない。》
つまり、人民は「代表」を選んで任せると前提する。だが、民主主義は「正しい授権」ということにつねに「保留」をつけている。選ぶときは「マジョリティ」が「授権」する。しかしそこには「マイノリティ」が存在していることが前提になるばかりか、「マジョリティ」の望んでいることと授権されたものの提起する政策が一致するかどうかも不確定である。投票した選挙民(「市民」)の「マジョリティ」によって「授権」した政権担当者の政策が「人民の希望」を正しく代表しているとして「異議を唱えることはできないと主張する」正義性(私は大阪都構想の橋下徹市長を想い起している)こそが、ポピュリズムの本質だと(ミュラーは正義性という表現はしていないが)規定しているのである(ミュラーは「市民」というのを多種多様な利害と希望を持つ存在として用い、「人民」をいうのをルソーのいう「一般意思」のように用いている)。
だが本質規定が面白いのではない。そこから派生するように表現されているポピュリズムの現象形態が、まさに今の安倍政権が右往左往している事態をとらえている。
「恩顧主義(クライエンテリズム)」とミュラーは表現しているが、森友や加計学園にみられる、支持者や親しいものたちへの恩顧やいわゆる「忖度」がシステマティックに行われることを指している。つまり、自分たちが「人民の希望」を正しく代表しているという自信が、「私が依頼したことも指示したこともない」という安倍首相の自信満々の答弁に現れる。つまり、内閣府や財務省を含む各省庁の役人は、完璧に(正しい)私の統制下にあることが正しいという絶対前提がある。
それとほぼ同じように、今日の新聞のトップを飾っている稲田防衛大臣の辞任にいたる、PKO日報の所在を「聞いていない」と答弁する正義性を貫いているのは、「人民の希望」が(正しい)わが身に体現されている自信である。防衛大臣という職責と防衛相という組織と自衛隊という実力組織が彼女の身の裡で一体化している。だから先般の都議選における応援演説のように、「自衛隊、防衛相としても(自民党候補を)よろしくお願いしたい」と平然と言ってのけることができる。
ここまで来て、私が自民党の安倍政権だけをみて面白がっているわけでないことが、わかっていただけるだろうか。たとえば日本共産党というのも、人民意志の体現者という意味では、昔から自信満々であった(中国共産党もまた、それに輪をかけている)。自らは過つことはないという無謬神話も、いまだ健在である。つまりミュラーの本質規定は、目下の政権に当てたものではなく、「民主主義の現在」がぶつかっている課題に焦点をあわせようとしているものなのだ。
この本では2016年の出版というのに、アメリカ大統領・トランプもフランスの大統領選候補・ルペンも、オーストリアの排外主義的な極右候補・ノルベルト・ホーファーも視野に収めている。ちょっと気になって経歴をのぞいてみたら、ドイツで生まれ、イギリスのオックスフォード大学を卒業し、アメリカのプリンストン大学で教鞭をとっているという、政治学の専門家。いわば欧米近代知の集合的研究者といえる。今年の1月に書かれた「日本語版への序文」もあるから、彼の視野に現在の日本も収められていると考えてもいい。
正義性に歯止めをかけることができるのは、人は過つ、人は変わるという認識である。たとえば稲田防衛大臣の場合、彼女が「日報は(あったが)なかったことにしよう」という防衛省幹部の方針に(無言で)同意していたのに、心変わりをして「開示する」ことへ方針転換したと(一部虚偽であったことを)謝罪していれば、その後の右往左往もなかったであろう(もちろん、その時点で、辞任する必要はあったかもしれないが)。安倍首相も初っ端で、モリやカケに関してあんなにきっぱりと「(関与したことは)絶対にありません」といわなくて、立場があるからそうした「忖度」があったかもしれないと(少しでも)余白を残しておけば、こんなに長引かせることはなかった。だが、よく考えてみると、安倍首相も稲田防衛大臣も日本会議に名を連ねる多くの人たちも、皆さん自信満々の「人民の希望」の体現者である。日本共産党も、そこんところを一皮むいて脱出できれば、民主主義政党としてポピュリズムから離脱できるかもしれない。
ま、ここは、そういう市民の希望がある、とだけ記しておこう。
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