2017年7月22日土曜日
藪の中に持ち込めるか庶民の「常識」
加計学園の獣医師学部の設置をめぐって、決定の2カ月も前に山本担当大臣が「加計の負担分も交えて獣医師会に知らせていた」ことがわかった。山本担当大臣は「獣医師会が自分の思惑で作成したもの、私は知らない」とほっかぶりをしている。
だが私ら庶民の常識で言うと、どうなるか。政治家というのは自分の立場を守るために平気でウソをつく人種とみなしている。だが、獣医師というのが平気でうそをつく人種とみなす根拠は、あまり持っていない。ということは、山本大臣がどう言葉を並べようと、藪の中に持ち込もうとしていると読むのが、庶民感覚というもの。
そういえば、森友問題もそうであった。これはどちらが嘘を言っているかわからないと庶民がみるのは、森友学園の籠池理事長という方が、教育勅語を幼稚園児に覚えさせたり、安倍首相がんばれと叫ばせたりするのを見ると、どうも眉唾物の人物ではないかとみているからだ。この眉唾度は、政治家の平気でうそをつくのと同じ穴の狢にみえるから、百万円寄付というのも、さてどちらがホントかわからないと、文字通り、眉に唾つけて聞いている。だが、森友の小学校の教育方針を礼賛し、副校長として名を貸していた安倍昭恵総理夫人が、ことが明るみに出るとすぐに副校長を辞退し、「なんでこればかり話題にするのかしら」と惚けて見せても、これを庶民は真に受けない。自分の立場を守るために嘘をつく政治家夫人と、受けとめる。庶民の常識からすると、政治家夫人が嘘をつかないという常識も、確立されていない。
加計学園問題の、文科省所蔵文書との整合性でいえば、官僚が勝手に物語を制作して文書に残すというのは、庶民の常識にはない。彼らは、明治以前からそうであるが、ことに明治以降は、文書主義である。過つことなしという頑固な完璧主義は「大東亜戦争」において、国家全体を窮地に追い込んだが、その性癖は戦後も変わったように見えない。だから逆に、官僚たちをエリートとして認めても来た。少々裏工作をして天下りを謀っていても、細かいことにまでは文句をつけないというのが、庶民のエリート処遇法であった。だから文科省の文書が「嘘を書いている」とは思っていない。「憶えていない」とか、「言った覚えはない」という政治家たちの弁明が、明らかに庶民の常識からすると、いつもの手口に聞こえる。まして「怪文書」だとか「文科省のスパイ」みたいに(正規雇用の)官僚を謗るのは、一番悪質な政治家の逃げ口上だ。だから「政府を信用しない」という世論調査に現れる。
そこへもってきて、陸上自衛隊の「日報問題」。陸自の幹部と事務次官が「いついつ何の会議で報告した」と記録を提出すれば、同席していた大臣が「聞いたことがない」と抗弁しても、これはもう、明々白々である。大臣は(陸自の幹部たちに謀られた)という結末に持ち込みたいのかもしれない。だが、そのような、ミステリーのようなことが自衛隊をめぐって起こっているのだとすると、クーデタの心配までしなければならなくなる。そもそも庶民は、質実剛健、文句も言わず身を削って働くものに同情的である。たぶん遺伝子的にも、刷り込まれているのではなかろうか。だから、いくら素人と言っても現職の防衛大臣が「誤魔化している」というのは、許容範囲を明らかに逸脱している。
こうした庶民の「常識」に挑戦する意思をもって安倍政権はいろいろなことに挑んできたのであろうが、こうも、庶民の「常識」に違うコトゴトが露わになってきては、もう政治家としてのタテマエやホンネを使い分けて済ませるわけにはいかない。そこまで来ているという気配を私は感じるのだが、さて、世の中はどう見るのだろうか。
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