2017年7月11日火曜日
「時の密度」が薄くなるということ
歳をとると時が早く過ぎると思う。私は一年の長さが年齢分の一で過ぎ去ると考えてきた。ふとある時、それを逆の方、つまり暮らしにおける「時の密度」として考えると、私たち年寄りは年の分だけ「時の密度」が薄くなっていることでもある。では、歳をとるにつれて「時の密度」が薄くなるとはどういうことだろうか。
幼子は混沌の海に生まれる。ことばにせよ、周りとの関わりの感触にせよ、感性や感情も、見様見真似で身につけていく。そのとき幼子も、ただ真似たままに身の内に入力しているのではなく、彼・彼女なりの法則性をつかみとって内心で組み立て、周りの反応やしぐさをみて補正したり修正して「かんけい」的にことばやしぐさを獲得しているのだと、いつぞや言語学者が書き記していた。つまり、真似るというのが、あるケースを模倣して入力し(そのケースと同じ時にだけ)ベタに出力するというのではなく、「関係」的に位置づけられ象徴的に組み取られ、(これと思う感触のケースに)どんどんと転用されていくように、構造化されていっているのであろう。むろんその出立点で、親から譲り受けたDNAの資質が作用していることも勘定に入れて良い。
幼子の「時の密度」が濃いのは、ありとあらゆることごとが入力され、それらの雑多な、まさに混沌のことごとをすべて、「かんけい」的に組み取って構造化する法則性を心裡において為しているからである。ヒンドゥにいう混沌の海から「せかい」の断片を一つひとつ紡ぎだしていくわけであるから、自ずから「時の密度」も濃くなろうというものである。
逆に、では、私たち年寄りはいま、「せかい」をどう紡いでいるか。日々世界中で起こる出来事は情報として耳に、目に入ってくる。でもたいていは、気にも留めない。つまり取捨選択しているのだ。むろん自分なりの「法則性」をもって判断している。用のあること/ないことは、ためらうことなく選び取ることができる。新聞だってTVだって、一日中情報を垂れ流している。新聞記事を読むと微細にわたり子細を極めて書き込まれているが、それを全部いちいち読み解いたりしない。まず、見出しだけみて、それ以上踏み込まない。つまり「せかい」が混沌としているのではなく、すっかり整除されて、無用のことに気を回さない。つまりそこまで混沌が分節化され、「せかい」はだんだん世界として見えるようになっている。それは逆に、世の混沌を「用のないこと」として関心外に置いておくことをしている。もちろん「わからない」ことは多い。でも世の中のすべてが「わかる」必要がないことを十分承知している。いやむしろ、「わからない」ことを「わからないせかいがある」とわかるようになってくるのが、歳をとるということなのだ。そのなかには、バカの壁もある。自分で壁を設けて、ああ、俺は数学は苦手だから……と数式の並ぶ哲学の本などを棚上げしてしまうというのも、バカの壁といえば言えるが、案外賢明な見切りでもある。人はみな違うのだ。今日の自分は昨日の自分とも違う。バカの壁を登ろうとする自分とさっさとそこから離れる自分とも、また違う。
若いころは、これができない。なにしろ「無限の可能性」があると尻を叩かれる。そりゃそうだ。まだ使わない金は「無限の可能性」を手に入れる魔法の壷。「人間の才能」だって同じだ。じっさいに使ってみると「無限」はすぐに消える。歳をとるということは、それだけで、身をつかっていること。だからいつまでも若いわけではなく、「無限の可能性」は「選択」によって「限定された現実性」に姿を変える。あれもこれもと思いがいくらあっても、現実には一つのことしか選べない。最近、将棋の最多連勝記録を打ち立てた中学生が高校へは行かないというのも、賢明な選択といえば言える。賢明とは、現実的なじぶんの才能を考えたら、そういう選択も賢いという意味だ。人と比べたりしたら、優勝劣敗もすぐわかる。優秀なヤツは両手に花なのに、平凡なオレは二兎追うものは一兎を得ずとなる。
「幸せ」の話をしているのではない。私たちの「せかい」がどうかたちづくられるかをクールに考えているのだ。ではなぜ、人と比べたりするのか。人は人の世で生きている。そこでは「かんけい」が生まれ、力関係の優劣もおのずから生じる。その「せかい」のなかに自らを位置づけて暮らしている。私たちは混沌の海から「せかい」を紡ぎだすとき、幼いころはやみくもに紡いでいるように見えるが、それはじつは「このわたし」の海を泳いでいる。ことばを紡ぐにしても、しぐさを紡ぐにしても、だれもかれもが同じ環境に取り囲まれて生まれ落ちるわけではない。じつはその初めから、「このわたし」が生きている環境は「あのわたし」が生きるそれと同じではない。しかも時代という限定がある。いま日本に生まれた「そのわたし」と、シリアに生まれた「あのわたし」は、混沌も紡ぎだす法則性も同じであろうはずがない。それと同様に同じ日本にしても、戦争中の昭和17年に生まれた「このわたし」といま生まれてくる「そのわたし」が泳いでいる混沌の海はまるで違う。真似ることばもしぐさも、当然現実過程に適応するべく紡ぎだす法則性もまるで異なってくるのは、当然と言えば当然である。
さて話をはじめに戻そう。嬰児にとってはこの世のすべてが「せかい」である。これは全重量がかかる。「時の密度」は無限である。幼子は「せかい」を造成中であるから「時の密度」は濃い。徐々に「世界」が分節化されてくると、社会にいる「じぶん」が目に見える。「じぶん」というのは「世の初めから定められしこと」と言ってもよい。親から受け継いだ才能も近親者という環境も平和か戦乱かという時代も、「じぶんのせかい」として気づくことになる。これ自体が限定性を持っている。そこには人として社会に生きていくために適応しなければならないさまざまな振る舞い方が待っている。それら社会的才能も「かんけい」能力として「じぶんのせかい」に組み込んでいかなければならない。そのときの社会がもつ「秩序=序列」に自分の立ち位置をマッピングすることができるとき「わたし」の胸中では、「じぶんの才能」への見切りが通過している。こうして、「時の密度」は緩やかに薄められ、三十にして立つころには、すっかり己を限定してひとつ仕事に邁進しているというのが、世間相場だ。
こうして迷うことなく一つの領域に身を投じ、そうしていることが「世界」を論じることと等質の生き方であると気づいて「致命」を迎え、還暦を過ぎたときに「お年寄り」呼ばわりされて、世の鼻つまみ者になっていることに気づかされるという次第だ。それ以降は、時が立つのが早い。
何で割ったか知らないが、わたしの「時の密度」はすっかり水っぽくなってしまった。本当に薄くなったら蒸発していくしかない、か。ははは。
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