2017年10月9日月曜日

人類史と個の人生を繋ぐもの――第28回 aAg Seminarの報告(1)


 9月30日に「36会 第28回 aAg Seminar」が行われたことは、10/1に記した。しかしその中身については触れていなかったので、今日は少しそこへ踏み込んでみたい。講師は私、お題は「文化はどう受け継がれているか」でした。

 ★ このお題の「モチーフ」

 「人に迷惑をかけないで身罷りたい」とすでに高齢者の私たちは願う。ところが、欧米では「人に迷惑はかけない」は子どもに教える徳目に入らない、と進化生物学者で文化人類学者のジャレド・ダイヤモンドは福岡伸一との対談で答えて、生き残りのために培われた「智恵」には「嘘をつく」「騙す」「契約を守らない」は、交渉術として一般的ですらあると述べている。

 この、ジャレド・ダイヤモンドと私たちの「迷惑をかける」センスには、大きな「場」の違いがある。ジャレド・ダイヤモンドの言には、利害を奪い合い争う、「他者とのかんけいの場」を生きる人々の智恵が込められている。だが、私たちが「迷惑をかけずに」というときの「場」は、ともに生きている人々の「共同性」の感覚が土台にある。もう少し踏み込んで言うと、ジャレド・ダイヤモンドの「共同性」の核には家族やご近所の顔見知りや同好の士がいるであろうが、これとても、依存しあうことを当然と考えているかそれぞれが自律的であるかに思いを及ぼせば、違いがあることがはっきりするであろう。つまり、私たちの暮らしている社会の文化や規範が「環境」として土台をなし、その「場」に育まれて私たちは「自分」をつくってきているのである。
 もちろんここにも、「生き残る」ことについての執着の違いも露わになってくるであろう。私たち一人一人が「生きのびる」ことをどう評価しているか。「人」を押しのけてでも生きのびようとするのか、それほどに生に執着することを潔しとしないのか。そこも、時代による変遷と「場」の違いによる宗教観・人生観・世界観・自然観の差異として現れてこよう。
 その(日本における)現在の「環境」がいつ頃から醸成されてきたか。むろん、人類史の堆積を綿綿と受け継いでいるのであるが、近年の歴史家の言によるならば、おおよそ五百年ほどの変遷をたどれば、現在の「環境」の原型にたどり着くといえよう。そうしてその後の(ことにここ百五十年ほどの間の)社会関係と国際関係の急速な展開とそれに伴う変容の渦中にあって、私たちはいままさに、大きな変容を遂げようとしている途上にあると、実感する。
 この、私たちの受け継いでいる文化はどうかたちづくられ、どう受け継がれていくのであろうか。そう考えたのが、このお題のモチーフであった。

 ★ 縦軸と横軸

 上記の「モチーフ」には交錯する二つのモメントが雑居している。一つは(これを縦軸と呼ぶと)「ヒトとして生まれ人間になる」といわれる、私たち個々人の誕生と生育・成長の物語り(つまり、文化と自律)がある。もう一つは(これを横軸と呼ぶと)35億年の生命体の歩み(系統発生と進化)の物語りがある。もっともごく最近、39.5億年前の生命体の痕跡を発見したと東大の研究者が発表していたから、これもまた、研究進化の途上にあるといえる。
 この縦軸と横軸は、相似的なかたちをとっている。母体のなかで単細胞からヒトとして生まれるまでの間にたどる「系統発生」の歩みは35億年の蓄積を(単体が)受け継いでたどる航跡を示している。しかもヒトとして生まれ落ちたときすでに、ホモ・サピエンスとしての形質を備え、良くも悪くも、ヒトとしての感性や言語への素養(クセ)を受け継いでいる。しかも、ヒトとして生まれてから成人するまでに二十年近い「養育」期間を持つ。そのときの「環境」は、ここ五百年ほどの痕跡が色濃く、百五十年の変容に揺さぶられてきた「家族」や「地域」などのまさに「環境」によって構成され、育まれる。進化生物学者の金井良太は「三、四割は遺伝的形質」と指摘しているが、それに加えて、生まれ落ちた家庭の「文化的資本」の違いも、明らかに「環境」として作用している。つまり、出立点において、子どもたちはそれぞれの社会的環境を背負っているのだ。

 ★ 進化と文化・習俗の端境

 先述のジャレド・ダイヤモンドは『セックスはなぜ楽しいのか』(草思社、1999年)という著書を著している。原題が「Why is sex fun? :The evolution of human sexuality 」だから、原題通りの書名にしたのであろうが、「18禁」扱いされたため、文庫化した折のタイトルは『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』(草思社文庫、2013年)と改題したといういわく付きの本。でも中身はいたってまじめな進化生物学的論述。セックスはなぜ楽しいのか。ヒトのメスはなぜ寿命のはるか前に閉経するのか。ヒトが「養育」をするための知恵として進化した結果だと、進化生物学と文化人類学からのアプローチしたもの。1970年代に精神科医の岸田秀が「ヒトは本能が壊れた動物」と書いていたものが、ここまで進展してきたと読むことができる。
 私たちはこの形質を受け継いでいる。さらにそれに加えて「愛」の物語りを紡ぎ、家族という習俗や制度をつくりあげた。キリスト教文化のかたちづくってきた「愛の物語」と日本における「性のあしらい」とは、また違った様子を見るが、欧米文化を模倣してきた近代日本の「家族制度」は、絶対神なき「愛の物語」として(違った様子が)混淆しながら現在に至っている。昨今の日本でも「不倫」をあげつらって騒ぐメディアの報道はあるが、一夫一婦制を守れという信条以外に、これといった定見があるとは言い難い。つまり、制度としての一夫一婦制に寄り添う気持ちと人の心情としての不倫への共感性との狭間で落ち着きどころを見失っているとしか思えない。それに対して、フランスの事実婚やLGBTに対するヨーロッパの対応は、キリスト教による宗教的縛りに対する「人間優先」の対応策ということができる。これは婚外子が半数を超えるというヨーロッパの「通婚」の実情を反映し、すでに、「家族」の転換点を超えつつあるとさえ思わせる(つまり家族に拠らずとも、社会的に生存を保障するように変換しつつある)。
 ところが日本は(市場中心主義に席巻され、国家への中央集権的依存がすすんで)地域や家族という中間共同性が解体され、「個人」をユニットとする社会構成が蔓延しつつある。「家族」はかろうじて「個人」の依存(養育/介護)装置として作用するばかりになっているし、政府もまた、家族の機能を強化しようと政策を組み立てている。「迷惑をかけたくない」という高齢者の思いは、そうした社会状況を受けて、依存ではなく自律を希望する高齢者世代の心情を表している。
 私たちは、進化生物学的な気質を受け継ぎつつ、文化・法制度を通じてその行き先を探りながら、日々の社会変動に適応して、「生き残り」を手探りしていると言えそうだ。「家族」への復古がいいのかヨーロッパ的な「事実適応」がいいのかは、何百年かの経過を経て自ずから決まるのであろうが、「復古」的な施策が将来を拓くとは思えないところに、大きな社会システムの行き詰まりが見えるような気がする。

 ★ 自然淘汰と人間の介在とヒトのクセ

 ジャレド・ダイヤモンドよりも百年も前に、ダーウィンは『人間の進化と性淘汰』という論文を1871年に発表し、soul(精神)、つまり良心や道徳観念も、大きな脳や直立姿勢や一般的な能力と同じく「自然選択」されたものと考えていた。だから、親子の愛情や内なる声(良心)を「社会的本能」と名づけてもいた。これらについては、近年のMRIやヘッドギア機器など、生体の脳の観察によって脳に刻まれた「モラル」として急速に研究が進んでいるから、後に触れる。その前に、ひとつ『外来種は本当に悪者か?――新しい野生The new wild』というフレッド・ピアスの論考に触れておきたい。そこでは、ヒトの感性や思索におけるクセが指摘されている。

1、イースター島に侵入したナンヨウネズミが植物を食い尽くした結果、ラバ・ヌイ族が滅亡したことを取り上げ、ラバ・ヌイ族が木を伐り倒して自滅したという「俗説」を覆した。
2、オーストラリア・クイーンズランドでは、トウモロコシの害虫を駆除するために猛毒のオオヒキガエルを導入したが、このカエルはトウモロコシの害虫には見向きもせず、他の虫たちを食べて繁殖した。最初その毒にやられていた在来種も、そのうちそれに適応して、独の部分を食いちぎって食べるものや毒そのものをものともしないようになって、生きのびた。
3、オーストラリアの犬ディンゴ、じつは外来種。でも豪州人は(在来種として扱う)。自分たちが外来種であることに口をつぐんでいる。
4、ヴィクトリア湖のナイルパーチが在来種の小魚シグリット500種を食い荒らしたと言われてきたが、じつは、水質汚染で富栄養化し、水底が酸欠になり、浮いてきたシグリットをナイルパーチが食べた、と判明した。

 つまり、人はそのおかれた立場を崩さず、外来種は悪者と決めつける。オーストラリアの牧羊が引き起こした生態系のカオスには、誰も触れない、とフレッド・ピアスは指摘し、[新しい野生]を展望しているわけだ。
 自然淘汰とは言え、ヒトが、感性や言語、思索を持つこと自体が、ある種のクセを帯同している。自分の不都合な真実には目を向けない。それを十分承知したうえで私たちは、諸々の「研究」を読み解かなければならない。(つづく)

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