2017年10月11日水曜日

せめぎ合う複数の倫理を使いこなす試練


 なんだかよくわからない「国難」に立ち向かうと称して衆議院を解散し、総選挙がはじまった。「三極構造」とメディアは煽り立てているが、対立軸が定まらない。そう思っていたら、鹿島茂が『「悪知恵」の逆襲――毒か薬かラ・フォンテーヌの寓話』(清流出版、2016年)で「超大国の属国か弱小国の集団自衛体制か」と「対立軸」をつくりあげて論評している。


 いうまでもなく日本は、「属国」になっている。《属国になった割には、なかなかうまく立ち回った》と鹿島は評価する。憲法九条を「押し付けられた」結果、軍事的な領域はすべてアメリカに預けてしまい、我関せず焉と惚けていたというわけだ。日本に憲法九条を押し付けたのを「アメリカの失政」とまで言って、今のアメリカの立場から同盟国として日本を動員できない点を、日本政府は最大限利用してきたとみている。

 目下の衆院選の対立構図から描きだせば、九条に自衛隊を書き加えて改憲する安倍案と立憲民主党や共産党の「九条守れ」という案の二つしかない。希望の党が「改憲」を掲げてはいるが、何をどう改憲するかいっこうに明快にならないし、明快にすれば、たぶん政党として成り立たなくなる可能性がある。安倍案にしてからが、「九条の戦争放棄」を無視しがたく、自衛隊の法文化という、合法化を図る趣旨のもの。つまり、「押しつけ憲法」の狙いのひとつであった「日本の無力化」の延長上に「改憲」をおいてそろそろと「民意」を問おうとしている。だが、そういうことだろうか。

 いつだったか(2017/9/3)、このブログで亀田達也が紹介していたジェイン・ジェイコブズの節に触れたことがある。アメリカのジャーナリストであるジェイコブズが、これまでの倫理にまつわる諸説は大きく二つの倫理に分けることができると建てた「仮説」である。〈市場の倫理〉と〈統治の倫理〉に分け、それぞれ15の特徴を書きだしていた。たとえば、〈市場の倫理〉では「他人や外国人とも気安く協力せよ」「暴力を締め出せ」「正直たれ」などなど、〈統治の倫理〉では「排他的であれ」「復讐せよ」「目的のためには欺け」などなど、対立的な項目が並ぶ。そのうえで亀田は、ジェイコブズの「仮説」を採用して日本人経済学者と生物学者の行った「進化ゲームと呼ばれる数理モデル」の結果を引用して、「倫理がそれぞれ一つだけであれば協力的な社会が実現できるのに、二つの倫理が拮抗すると互いにいがみ合って社会の協力が壊れてしまう、という結果はとても示唆的です」と結論的に記している。この亀田の言説が、戦後日本の「憲法九条」がもたらした日本社会の安定的な(平和ボケと言われる)状況を説明していると思われた。

 つまりこういうことだ。戦後の日本は、アメリカに禁じられたことによって「無力化」した。それは、いわば(対外的な政治状況において必要とされる)暴力的な側面は骨抜きにした。ジェイコブズに引き寄せて言えば、〈統治の倫理〉はすっかりアメリカに預けて、〈市場の倫理〉だけに専念するように「場」が設定されたのであった。そうして亀田が言うように、「倫理がそれぞれ一つだけであれば協力的な社会が実現できる」社会を実現したのであった。言葉を換えて言えば、ほぼ実験室的な環境におかれて、然るべく、日本の戦後の「平和」は達成された。成立当時、「押しつけ憲法」を批判してアメリカからの独立と自主防衛をはっきりと主張していたのは、共産党だけであった。

 この戦後の「平和」が骨の髄まで浸透している。私もそうだし、日本人のほとんどが(「属国」と呼ばれるのは良しとしなくとも)「九条の精神」を今後も維持すべきだと考えるのは、いわば当然である。だから「自衛隊を合法化する」という苦肉の策を安倍案も採用せざるを得なかったのだが、それは鹿島茂に言わせれば、「超大国の属国」路線を意味する。

 どうしてこういう状況が生まれているのか。

(1)トランプのアメリカが、(負担を求めるな)日本は自分のことは自分で守れと迫っている。「敗戦」を認めたくない日本の右翼保守層は、核武装も含めて独自防衛を望んでいる。
(2)他方でアメリカは、日本の武装自衛路線に対する警戒を(安保体制は日本の暴走を抑えるキャップとして)もっている。日本の民衆は〈市場の倫理〉から(結果として)これを支持している。
(3)上記の相矛盾する二つの狙いをとりあえず収める方法として「日米同盟」路線を保持すること。
(4)だがアメリカにとっては中国との「力関係」が主たる戦略眼目であるから、日本は袖にされるかもしれない。そのために「日米同盟」を強調し、アメリカに過剰に協力的になり、アメリカの保護を求めている。

 上記四点のいずれも、日本の内的な要請とアメリカの思惑と双方のモメントが作用している。だから「属国」という侮蔑的な表現を忌避するのであれば、〈市場の倫理〉の延長上に「国際関係の主導権を握る」方策を提案しなければならない。今の「立憲民主党、共産党など」の極からその提案がなされてはいないことが、いっそう事態を五里霧中にしている。それらの人たちが雑居していた民進党の時代にはとても適わないことであったが、希望の党に行くべき人たちが行ってしまったことによって選挙における構図は極めて分かりやすくなった。今こそ、一つの極として、「戦後市場倫理にどっぷりつかってきた私たち」を引き付けるにたる「提案」を聞きたいと思う。

 亀田達也の言い方を借りれば、〈統治の倫理〉は安倍自民党(やそれと似ているであろう希望の党)に任せて、自分たちは平和を守れという〈市場の倫理〉だけを主張しているのでは、あまりにご都合主義が過ぎる。鹿島茂は「弱小国による集団的自衛体制」というのを、中国や韓国、北朝鮮と手を組むことだと想定しているように見える。「超大国の属国」ではなく、自主防衛路線をとるには、自在な外交的ポジションをとらなければならない。となると、東アジアの相互安全保障体制を構築していくしか選択肢はないではないか。

 それが可能かどうかを説明する力量は、私にはない。だが、大きな構図が描ければ、〈市場の倫理〉を変容させて〈統治の倫理〉を組み込んだ戦略をあらためて考える道が開ける。そのようにして、私たちは自らの実存を希望として思い描けるようになると思うのだが、さてこれは、選挙ではどうにもなるまい。まず、そう思いますよね。

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