2017年10月16日月曜日

いつまで朝三暮四をくり返すのか


 選挙戦のさなか株価が高値に上がり、与党を支えようとしている。雇用にアベノミクスの効果が出ていると、与党は強気だ。また、どの党も教育費の無償化など財政支出を伴うことの公約が(似たり寄ったりに)目白押しに並び、果たして財政は大丈夫なのかと不安になる。新聞に掲載される各党の公約比較も、同じようなものが並び、果たしてなぜ子どもへの財政支援をするのか、なぜ教育費の無償化を図るのか、その狙いが奈辺にあるかについて、言及しない。つまり、「得になること」だから説明は要るまいとばかりのスタンスである。だが、そうか。腸に沁みるような理念的な根拠が表明されない。


 日銀のマイナス金利政策もそうだが、八十兆円という国債や株の買い入れを日銀が行って、政府の景気刺激策を援護している。だがその(日銀の、政府の)借金は、将来世代からの借金である。日本銀行券だから返済しなくてよいという「論理」が成り立っているかのように、歯止めのかからない財政支出は、いずれ税金で返済しなければならない。それが消費税ということになれば、10%どころか20%にしても追いつかない数字である。しかも、消費税にしてからが、大多数の人が消費行動をすることで、税収になる。ところが、高所得者も低所得者も(たとえば)ひと月に(経常的に)消費する金額は何百倍もの違いがあるものではない。せいぜい10倍から20倍だと私はみている。つまり消費税重視の税収というのは、景気刺激による収入が多数を占める人たちに行き渡ってこそ、伸びが見込める。景気はいくぶんよくなっているのだろうか。だとしたら、にもかかわらず低所得層が増えているのは、どういうことか。入る処には入り、企業の内部留保が多くなって、賃金として分配される分が削られているのだ。景気がいくぶん浮揚しても、わずかの人たちが驚くほどの高所得を得、大多数の人たちが低所得に甘んじるというのは、高度消費社会の経済活動の特性が中間層を衰退させ、高所得層と低所得層に大きく分割する作用をし、その格差を拡大させている。そこへもってきて企業は、内部留保という危機対応資金を積み立てようと賃金への分配を渋るようになっている。それはそれで一概に非難する筋合いのことではない。ということはつまり、今の資本家社会の市場経済は自動調節的に「分配」を行う機能を失っている。そこは、国家機能が作動しなければならない地点になっている。

 市場経済がもともとそういう分配機能を持っていたと言いたいのではない。だが、日本の企業が「終身雇用制」と言われ「年功序列型賃金」を採っていたと言われていたころには(現実には大企業を除けばそれほど日本的経営が営めていたわけではないが)、「会社」は社員の生活を保障する「家族主義的な」役割を果たしていた。その企業の経営が、バブルが始まりだしたころから株主のものとされはじめ、それに見合ったアメリカン・スタンダードの会計基準へと移行し、日本式経営は崩れていった。株価が経営の評価基準となり、ものをつくるということが、社会的な役割を担うことから、利益を売ることへと単純に移行し始めた。生産―流通―消費の社会的循環の一角を担っている企業の社会的役割が後景に押しやられるようになった。「社員」は「非正規雇用」が常態化し、雇用―解雇の関係が企業が自在にできるように改編され、若い人ほど、勤めることへの将来的な見通しを立てることができなくなってきた。

 いまあらためて思うのだが、私たちは何のために働いているのであろうか。資本主義市場経済を持続機能させるために働いているわけではない。暮らしに必要なものを分業してつくり、流通させ、消費する。それが経済活動の社会的な意味だ。ところが目下の経済活動は、景気をよくすること、成長することを必須のように考えて、刺激策を行っている。むろん欲望の肥大化を止めることはできないというが、ここまで経済の水準が高くなり規模が大きくなると、そうそういつまでも「欲望を刺激」してばかりいるのは、どう考えてもおろかに過ぎる。株価を吊り上げ、物価上昇率を高め、投資が拡大することを願うというのは、金融が大きく重視される市場経済の「傾き」である。人の暮らしがどう営まれているか、そこに焦点を当ててもう一度じぶんたちの現在を見つめ直してみるときに来ているのではないか。そうでないと、いつまでも朝三暮四をくり返すようなことがつづく。

 根源に立ち返って考えるという意味で、理念的な背景を持ったイメージの提起が必要だと思う。そういうことを、経済部面や文化の部面ですでに行っている人たちはいるはずなのだが、選挙という政治の季節には姿を現さない。日本の知識人は、いまどこにいるのか。

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