2017年10月28日土曜日

「信仰心」という「辞書後の世界」


 最近、『広辞苑』の改定作業が話題になった。言葉の意味・用語法やいわゆる「流行語」が(社会的に)定着したかどうかをチェックし掲載するか見送るかを一つひとつ検討して、新版は700ページも増えるそうだ。三浦しをんの『舟を編む』の行間に浮かぶ辞書編纂者の日々の振る舞いを想いうかべて、こういうご苦労なことをしている人がいることに、私たちはどういう面でどれだけ依存しているだろうかと思いを致したこともあった。そういえば、何百年に及ぶ「オックスフォード英語辞典」の何年版にどう書かれているかを検証して、社会論であったか教育論であったかを論じていた(日本人)学者がいて、「辞書」を社会的変遷の「史料」とするのは(学問的に)邪道のように非難する(やはり日本人学者との)やりとりがあったことも、記憶にある。辞書を史料とするのは安易すぎるという趣旨であったろうか。でも、広辞苑の改定作業を思うと、そう安易なこととも思えない。


 そうした「ご苦労」を(反面教師的に)思い出させる「表現」にぶつかった。落合陽一『超AI時代の生存戦略――シンギュラリティに備える34のリスト』(大和書房、2017年)。その一節に「信仰心」と題したものがあった。副題は《「信じる」という単純なことが、個人のメンタル維持にも原動力になる》と振り、本文でこう解説する。

《今の時代を生きる私たちにとって、「信仰心」は必要なのだが、ここでいう信仰というのは宗教という意味ではなく、「何が好きか?」「何によって生活が律せられているか?」「何によって価値基準を持つか?」という、「自分の価値基準は、何だろう?」という問いに対する個人の答えのことだ。》
《……人によっては、「趣味に生きる」ということが信仰だったり、「子育てする」ということが信仰だったりする。文化への接続という意味でも、敬虔なキリスト教徒や仏教徒だったりすれば、その教義にしたがって平穏に暮らすことが信仰になるわけだ。》

 この著者は、「信じる」ということと「信仰心」を一緒くたにしている。たぶん「信念」も同じと考えるのであろう。つまり、価値の差異はことごとく(人それぞれが)「信じる」ことによって生まれ、宗教の「信仰心」もそれと同列におかれて考えられている。「神々を信じる」ということと趣味嗜好(の根拠)とが同じに扱われては、神も仏も顔色を失うに違いない。どうしてこんな「間違い」がまかり通っているのであろうか。

 じつはこの点に、「AI時代」のもたらした「魔法」があると落合陽一は言う。2007年にiPhoneが誕生して以来10年の間に、インターネット上にAIがもたらした「新たな社会空間」がそれであると提示する。

《第二の言語・視聴覚空間をつくり、住所を持ち、SNSを生み、社会をかたちづくった。言うなれば人はデジタル空間にもう一度生まれた》

 つまりそこに生きる人=デジタル・ヒューマンは「集団への体験共有」から「個人の能力拡張」へと大きく舵を切った。その結果、人びとの得てきた「専門的修練」がAIに呑みこまれ、「特権的に得てきた何か」も民主化されてしまう、と。《「集団への体験共有」から「個人の能力拡張」へ》というのは、《共同幻想を脱した時代には個人一人一人のビジョンが重要であり、「整理」や「フレーム」「パラダイム」という名の信じるもののプラットフォーム化が、前時代のビジョンという名のコンテンツと同様に重要になっていく》ことだと見立てる。つまり、シンギュラリティによってAIに任せる仕事はAIに任せて人間はクリエイティブに生きるという能天気な「テクノフォビア」を抱懐するか、AIに仕事を奪われると危機感を懐くばかりになっている事態に、新たな枠組みをもって考えようと、呼びかける形になっている。

 「信仰心」という神々という超越的な外部を想定した物言いが、「趣味嗜好」や「信念信条」という自己中心的な選好と同列におかれるというのは、まさしく落合陽一のいう「第二の言語・視聴覚空間」だからなのかと、私は思っている。もはや「共同幻想」はAIによって(全きまでに)敷衍されてプラットフォームとなり、自由意志とか自己実現はアイデンティティを構成するキーワードの地位から滑り落ちる。結局、その時代を生きる人々(デジタル・ヒューマン)は、己固有の「信じること」を基盤として「人機一体」の時代を生きることになるというのである。

《自分の価値基準を自分で作って、自分で何か価値を決めて進行していくということなので、それは意識してやっていかなくてはいけない。》

 と明快である。いやはや、まいったねえ。私のような年寄りが、前時代の空気の中で暮らしてきたことは十分認めるが、シンギュラリティによってここまで、「辞書の社会」からも脱落することになるとは、思いもよらなかった。旧言語の遺跡を徘徊する私たちホモ・サピエンスは、デジタル・ヒューマンは棲み分けることができるだろうか。

 ちなみに、このデジタル・ヒューマンの落合陽一さんは1987年生まれ、今年30歳になる筑波大学の助教。学際情報学の博士号を持つ。なぜこうした「権威」的なことを記すか。じつは、この人の視界に入れているセンスが、私は嫌いではないと感じているからだ。たとえば「自分で決めたゲームの定義のなかで、人は本気で遊べるだろうか」と自問し、「問題設定があり、それを解決していき、そのなかで報酬が決まり、楽しいと思える。それが遊びだったのではないだろうか」と回答領域の限定をしておいて、たとえば「スキーをゲーム的にとらえると……その報酬として風を切る感覚がすごく気持ちがいい」と展開する。つまり、自分で枠組みを考えて「遊び」にしていくというセンスを提案するのは、自らの輪郭を自画像的に描きとって、それによって「世界」を構想しろと言っているのと同じである。そういう点で、棲み分けるというのとは少し違うが、両方の時代を繋ぐ思索のプラットフォームの同一性をイメージしているのであるが、これは私の錯誤なのだろうか。

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