2017年10月14日土曜日
知らないこと
知らないことや知っていると思っていたことが、じつは見当違いであったということによく出くわす。つい先日も、網野善彦の古い本を引っ張り出してパラパラとみていたら、そういうことに出逢った。
網野善彦は中世の研究をもっぱらとする歴史学者。その彼が、研究過程で読み解いた「誤解していたこと」に率直に触れて述べているのが目を惹いた。それを列挙すると。
(1)「百姓」を農業民とする間違い。海民、山民、商業・交易活動をしていた人々など非農業民も、含めた「ふつうの人々」が「百姓」であったと臣解いている。「頭振(あたまふり=水呑)」というのも、貧しい小作農と理解していたことが大間違いであったことも、奥能登の名家に残されていた膨大な古文書を読み解く過程で「実証的に」明らかになったと触れている。財を成し、商業金融にまで手を伸ばしていた、と。しかも奥能登のことだけではなく、山口県上関の人口構成が残っている地域、あるいは瀬戸内海に面した山陽道や四国の浦浦、大阪の泉佐野市の旧家の研究からみても、全国的にいえることと敷衍されている。
(2)「村」というのを農村と思っていることの間違い。《村という単位は……非水田的、非農業的な集落、郡、郷、荘のような公的な行政単位から外れたところ……。公の水田からはずれ、あとからできた田畑や集落が村と呼ばれて…中世の村には山の中の集落がわりあいに多い…奥能登では多くは江戸時代に港町になるような海辺の集落です》と指摘する。古文書を読むとき「百姓」とあると農民と読み取り、「頭振/水呑」とあれば貧農と理解する。また、「村」とあると農村と考えて、その後の文脈を読み解くという従来の作法では、大きく社会のイメージを描きとることができない。日本が農業中心社会であったという通念そのものにも、疑念が生まれる。
(3)その延長上に位置するが、それらの思い込みが、なぜ形成されたかにも触れていて、古くは律令制度の(大宝律令などにはじまる稲作中心主義的な発想で組み立てられた人々の登録制度や徴税制度の)せいであろうと仮説を立てている。
(4)そうして、海上交通路が思いもよらぬほど発展していたことを突き止める。整備された街道などの陸路が、法整備上重視されたが、案外に不便で、海上交通路を利用することが容認される制度変更によって、陸路が廃道寸前に至ることにまで言及している。
(5)上記との関連になるが、倭人の居住範囲が今の地理的日本だけではなく、韓国南部や中国の一部も含めていたことを記述する。
(6)上記との関連もあって、「日本」という国号が用いられはじめた時期をある程度特定し(天武・持統朝)、その範囲も畿内中心であったこと、征夷大将軍が派遣され制圧したとされるとき以降にも、施政権が東北にまでは及ばないと限定的である。また、九州南部も含まれていない。
(7)では、後に日本列島と呼ばれる地域に居住する人々はどこからやって来たかについて、これまでの琉球・奄美系列、朝鮮半島系列とならんで、北からの文化や物資の流入、交通があったと力説している。
(4)~(7)は、なんとなく耳にしてきたことであったが、(1)~(3)は驚きであった。
今年の四月頃のこのブログで「お伊勢さんと私」について、読んだ本から受けた刺激を、わが身の輪郭を描くように書いたことがあった。そのとき私は、記紀神話と私を繋ぐ身体感覚として「農業民の末裔である私」という「共感的」思い込みがあることを記している。また私自身の「身」に覚えのある原風景は、ほとんどが農村であり、農家であり、田圃であった。むろん瀬戸内という海も一角を占め、父親の生業であった八百屋も、それを手伝ったことも沁みついている。でも、「百姓」が農民だけではなく「ふつうの人」を意味し、じつはそれに見合うくらい、中世から「百姓」の職人的製造活動、商業交易、ことに廻船業に乗り出していたことなどは、社会のイメージがすっかり入れ替わるくらい大きな指摘であった。
そういう視点から(4)~(7)も見直してみると、やはり4、5月に記した「天皇制と私」なども手を入れ直さなければならないことがあるなあと、振り返ってみている。やはりわが身に降りてきた「私」は、時代の申し子であった。できればそこから、一風変わった申し子になりたいとは思うが、さて、どうなりますやら。
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