2017年10月12日木曜日

何を笑うか


 映画『笑う故郷』(アルゼンチン、2016年)を観た。久々の傑作に触れた。ノーベル文学賞を受賞した作家が、文学賞の受賞会場や四十年ぶりに帰った故郷・アルゼンチンの田舎町での出来事に触発されて、なぜ書くのか、作家という自己の立ち位置を自ら描き出していく物語り。ノーベル文学賞を受賞することが、世に認められるという「作家としての死」を意味すると受けとめているこの映画の出発点の自己批評性が、おおっ、面白そうと期待を持たせる。


 マスメディアに顔を出すことを徹頭徹尾嫌うという受賞後の世の中との向き合い方も、冒頭の自己規定に即している。そうして五年、作品を一つも書くことができないという状況と「書きたいことが噴き出してくるようにならないと書けない」という心情も、後の故郷でのやり取りから浮かび上がる。この映画全編に、作家という自己に向けられた視線が一貫している。

 そうしたときに生まれ故郷・アルゼンチンの田舎町・サラスから招待が届き、四十年ぶりに帰国する。幼馴染との邂逅、ノーベル賞作家を迎えたという歓待と文学講演会と様々な行事、その狭間に、故郷を捨て(親の葬式にも顔を出さなかっ)た作家と、それを知る故郷の人々との齟齬が浮かび上がる。その(文化的ともいえる)齟齬にこそ捨てた理由がうかがわれるが、そこはそれ「お前はヨーロッパに魂を売った」と故郷の側にも言い分がある。そうして、故郷への批判的な言辞を投げおいてスペインのわが家へ帰るつもりであったが・・・、思わぬ出来事に見舞われる。

 その故郷での出来事が、新しい作品を書き上げる意欲を掻き立てたと思わせて、にやりと笑う作家のクローズアップで映画は終わるのだが、はて「笑う故郷」というタイトルの「笑う」は、何を笑うのであろうかと、観る者の心裡に疑問符が浮かぶ。「故郷を笑う」であったら、あまりにも通俗。「故郷が(作家を)笑う」であったら、それはそれで面白い設定になるが、画面は、そのようにつくられていない。観る者が決めることには違いないが、私がみるところ、ノーベル文学賞というヨーロッパの知的権威を「笑い」、あまりに通俗な権威に寄り添おうとする故郷の習俗と文化を笑い、とどのつまり、笑われる己の自己批評性こそが唯一、笑うものの原点にあるのではないかと浮き彫りにするところに、この映画の制作意図があったのではないか。そう読み取った。生きるとは自分の輪郭を描き出す振舞いに過ぎないのだと。

 ヴェネチア国際映画賞、アルゼンチンアカデミー賞などなど、六つもの映画賞を受け、たぶん日本上映に際してだろうが、アルゼンチン共和国大使館、スペイン大使館などなどの名を連ねている「後援」者たちも、存分に笑われ、笑っていると思うと、いやなかなか、この世は捨てたものじゃないと感じる。日本の政府というか、文科省などは、たぶん、こういうセンスを持っていない。

 とき、あたかもカズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞する。彼の故郷・ニッポンがこのサラスのように描かれたとしたら、外国の権威とわが身への批評性に敏感なニッポンジンは、どう笑うだろうか。ちょっと興味深く思った。

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