2017年10月26日木曜日
無意識に刻まれた依存から自律すること
宮下奈都『太陽のパスタ、豆のスープ』(集英社、2010年)を読む。10月21日に、同じ作家の『羊と鋼の森』(文藝春秋、2015年)を読んで《究極の「美」を求め続けて歩く世界》と題してこのブログでも取り上げた。そのときは、「豊かな社会に生まれ暮らす人ならではの幸運」と、まず感じたと記した。と同時に、この「幸運」の成立由来を覗きたくなり、この作家の古い作品を読むことにして、図書館に注文した。
間違いなく「幸運の由来」のひとつが、この作品、『太陽のパスタ、豆のスープ』のテーマであった。
わたしたちはヒトとして生まれ落ちたときすでに、文化的な資産を受け継いでいる。直立二足歩行にはじまり、運動系も頭脳系も、言葉も感性もほぼ三、四割は遺伝子に書き込まれていると、脳科学者も指摘するほどである。そのなかには、遺伝子に書き込まれていることなのか、生まれて後の「環境」に育まれ(真似び学ぶこと)ことによって獲得されるのか、未だ分明でないことも含まれる。たとえば女性が、結婚ということによって、その後の自らの人生をどう生きていこうと(胸中に胚胎)するのか。日本という社会(の習俗・規範・制度)が「結婚」ということにかぶせている「妻(嫁)」の位置をくぐらせたうえで、女の人たちは自らの生き方を選び取っている。となると、「結婚」が決まった若い女性が、その先の生き方を「夫」とともに歩もうと思うのは何の不思議もない。それは(したがって)、「夫」(の人生)への依存でもある。「夫」は夫で、妻とともに暮らすことを選び取った瞬間に、習俗や規範や制度によって「妻」に依存した暮らしをはじめるようになり、定年後に離婚状を突き付けられて慌てるという格好になる。
『太陽のパスタ、豆のスープ』は、この、女性に無意識に刻まれた「依存」から抜け出し、自律した人生を歩む、その踏み出し方を紡ぎだした作品である。生物的なヒトとして受け継がれてきたことのなかに、すでに「人間」としての社会生活につながる繁殖の原型がかたちづくられていると、進化生物学者で、文化人類学者のジャレド・ダイヤモンドは指摘している(『セックスはなぜ楽しいか』)。だがその生物的進化に加えて「愛の物語」を紡ぎだすことによって、いっそう絆を固くしてきたと、私たちは考えてきた。ところが宮下奈都は、「自律」の土台になっているのは「太陽のパスタ、豆のスープ」であるとみてとる。その過程を、結婚を目前に控えて「婚約解消」された一人の女性を主人公の心裡の様子をたどりながら、掬い取っている。
「自律」とは、しかし、社会的な孤立ではない。「夫/連れ合い」に依存しないために、社会的に孤立してしまっては、実も蓋もない。誰かに依存しない在り様ながら、社会的「かんけい」のなかに自らを(自身の意思で)マッピングすることでもある。ことに今のグローバルな分業のご時世、社会的な依存なしに生きてはいけない。だからそれを振り切って「自律」というのは、それ自体が幻想と言わねばならない。そういう社会的「かんけい」とのかかわりを意識するところがあってこそ、開かれた自律になる。そこまで視野に入れて、宮下奈都は書き込んでおり、それを象徴することがらが「太陽のパスタ、豆のスープ」というわけである。
常々私は、女はえらいと思ってきた。何しろ子どものころから、家を出ることを運命づけられ(覚悟を決め)て、自らの人生を描いてきたのである。それに比べて私の世代の(戦中まれ戦後育ちの)男は、厨房に立つべからずばかりか洗濯も掃除も、「手伝い」程度しかしたことがなく、要するに母親から教わらなかった。ことごとく母親に依存していたのである。これが、家を出て独り暮らしをすることになったとき、どれほど難儀したことか。
男であるわたし自身、どう「太陽のパスタ、豆のスープ」を手に入れるようにしてきたかと考えてみると、山を歩くというのが大きな位置を占めてきたと、いまさらながら思う。いや、たいしたことではない。テントをかつぎ、寝具・食料を持参して山に向かい、何日かを過ごして下山することの中に、他人に依存しない、自律的な暮らしの実務を取り仕切る、意志と方法と具体的な動きとがある。そのようにして身につけた身体技法が、平地にいて、連れ合いと過ごす暮らしのかたちにも現れている。そのようにして五十年も一緒に過ごせば、互いの「依存」の頃合いも、「自律」の測り具合も、適度に測れるようになっているといえようか。
「太陽のパスタ、豆のスープ」を経て『羊と鋼の森』の「豊かな社会に生まれ暮らす人ならではの幸運」にたどり着いているとわかると、やはり女はえらいと改めて思うのである。
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