2017年10月21日土曜日

究極の「美」を求め続けて歩く世界


 この世に恵まれた人たちがいることは知っている。金銭や人間関係の醜い争いごとに悩まされることなく育つという環境もあろうが、出遭うことひとつひとつが己に問いかけ、それを胸中に育みながら、究極のところ、ことごとく己の裡側において完結する人たち。皮肉ではない。豊かな社会に生まれ暮らす人ならではの幸運と、今の私には思える。宮下奈都『羊と鋼の森』(文藝春秋、2015年)を読んでの第一印象である。


 「音」に心惹かれた一人の少年が、魅せられたわけを探求しつつ「音」が介在する「世界」にのめり込んでいく物語。ピアノの調律師とピアノとピアニストと、それが調律され、演奏され、それを聴き取る(人々の)場面に、「音」がどういう息遣いをして「かんけい」を紡いでいるか。そこに踏み込んで、自らの肌身に刻まれた原体験にスパークし、起ちあがる「美」の繊細さと人の手の関わる絶妙さを掬い取っている。究極の「美」を求め続けて世界を歩く人の姿がピュアである。

 作品中に何度も引用される原民喜のことばに、作家・宮下奈都の(主題的な)思いが込められている。

 《明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体》

 いまの、恵まれて育った若い人たちは、みな、この作家のようなのだろうか。穏やかでやさしく、他人へ刃が向かない。内省的で、ひたすら前向き。心裡に生じる不安も、不確定なことへの向き合い方も、自然(じねん)のように昇華されていく。もしそうだとしたら、現実に起こっている、醜悪な憎悪や嫉妬やヘイトスピーチや暴力や諍いは、恵まれない人たちの叫び声ではないのかと、「反世界」が私の内部で起ちあがる。

 この作家の作品に好印象を懐くだけに、「世界」と「反世界」の断裂に視線がひきつけられてしまうのは、私の業なのか。

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