2018年3月19日月曜日

香港(4)馴れない景観と食べ物


 前日の海鮮料理を食べたところへ案内してくれたのは長く現地でYさんと仕事をしていたIさん。私はただ「ついて行った」だけだったせいもあって、香港(地図上)のどこなのかわからない。そうなると、まるで自分の覚えまであいまいになって記憶から蒸発してしまうことになった。いつもなら行程を思い出せるものが、混沌としてしまう。まるで山中で道に迷ったような感じだ。考えてみると、空間認識と記憶とが(私の場合)、欠かせなく結びついていると思う。普段こうした行程記録を書く場合、メモ代わりの写真は参照するが、実はあまりメモを取っていない。時刻とルートをなぞるうちに思い浮かぶことを書き落としていく。ところが(たぶん)くたびれていて、人の後について行った場合、その航跡自体も頭に残らないというわけだ。


 さて五日目(3/10)土曜日の朝は早かった。朝食もとらないで、6時20分に集合して出発。道路の向かい側のバス停から遠方へ行く予定。ホテルにはIさんと同伴する鳥の現地ガイドがきて同行する。バスは二階建て。そうロンドンを走るバスと同じ。大きな荷物は下において、二階へ上がるようになる。荷物の監視は二階にいてもできるようモニターに画像が映し出されている。きれいな車体ですごいスピードで走る。制限速度は80㎞。そうそう思い出した。私たちが来る一月くらい前、香港でバスの転落事故があった。その現場が、探鳥二日目に行ったタイポカウから帰りに乗ったルートにあった。なんでも当日競馬があって、バスが遅れたのを烈しくなじった客がいたために、怒った運転手がスピードを上げて山道を降り下り、カーブを曲がり切れず崖から落ちてしまったということであった。二階に乗っていた客が死亡したという。私は二階の一番前の席に座った。一人が「えっ運転席はないの?」と妙なことを言う。運転席は一階にあるんじゃないのとおもいはするが、たしかに前に何もないと4メートル近い高さに宙づりにされて街をみることになる。超高層ビルが林立するから遠景自体はそれほどの違和感を感じないが、速度が増すとちょっとした脅威を感じる。ま、面白いといえば面白い。

 40分くらい乗って元朗のにぎやかな街に降りる。ここで背の低い古い街並みに入る。香港人は(中国人同様)外で朝食をとるのだろうか。張り出した店の庇の下に丸いテーブルと椅子に急須や湯飲みを置いて、何かを食べている。朝の7時過ぎだ。店の電灯はともされて、周囲からまさに煌々と明るく浮かび上がる。私たちの店は木立の緑がある公園に面してあった。「國記」という店名。「晨早粥品」「鮮明油麗」だろうか、草書で傍らに書いている。そう言えば、今朝はお粥を食べると言っていたか。下のほうには「自制布拉腸粉」とあり、「牛肉腸、叉肉腸、猪潤腸、痩肉腸、魚片腸……」と列挙している。看板の文字をみているだけで何だか油っぽい感じが胃の腑に充満するようで、お腹がいっぱいになる。入口のところのおばさんが大きな寸胴鍋からこれまた大きな柄杓で粥を掬って料理鍋に移し替えている。湯気が立っている。店の奥にはすでにたくさんの客が食べていて、私たちをみて、席を空けようとする人もいる。Iさんの話では「名物粥」なのだそうだ。一瞬私は、1961年頃の池袋西口の闇市の店を想いうかべた。東京オリンピックを控えてその3年後にはすっかり整理されて、立教大学の方まで見渡せるほど綺麗になってしまったが、あの西口の闇市は「一人ではいかないように」と寮の先輩から注意されるほど、おどろおどろしいところであった。と同時にそれは、私などが育った小さいころの戦後高松の普段の町場に似ていた。懐かしさも感じていたのだと、香港に来て、55年以上前を振り返る。

 おやおや、五日目のことを記すのに、朝食を終えるまでに時間が尽きてしまった。お粥の外に、米粉の柔らかい餅のようなものと焼きそばが出た。餅のようなものは食べることがで来たが、焼きそばはとても食べられたものではなかった。ほんとうにそばだけに魚醤で味をつけて焼いている。ぱさぱさとして口のなかで水気を吸い取ってしまう。一人分ではなく、皆で箸をつけるようであったから、ひと口皿にもらって食べただけで勘弁してもらったが、他の方々も口をつけなかったように思える。日頃私がお昼につくる焼そばの方が、野菜などの材料にしろ味付けにしろ格段にうまいと自慢してもいいほどであった。ほんとうに慣れないものは、口に合わないのだと、ふだん食べ物の好みなど行ったことのない私も強く思ったほどであった。

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